斜めに切られ、光る断面

 山崎ナオコーラ[著] 『浮世でランチ』(河出文庫


 ナオコーラさんの小説を読むのは先月末の『カツラ美容室別室』(河出文庫)に続いて2作目で、少しずつ、その文体の特徴というか、考え方もわかってきたような気がする。柴崎友香さんや長嶋有さんらと比較しながら感想を述べたくなるけれど、やっぱりその人の、その作品固有に存する論理を読み取ることが重要かと思う。


 というわけで、『浮世でランチ』。これもまた好きだなぁと読みながら大きくうなずきたくなる作品だった。世界の切り取り方が美しい。斜めからすぱっと鋏を入れて、思いがけないほど輝かしい断面を読み手に見せてくれる。
 

 物語は、語り手の「私」、丸山君枝の14歳と25歳、それぞれの現在を交互に描く構成で進む。14歳の「私」はクラスにうまくなじめず、世の中を斜めから見ているところがあって、そんな「私」と仲良くなっていくのもまた、少し浮世離れした人間が多い。中学に入ってから学校にあまり来なくなった犬井という幼なじみの男の子は、女の子のような言葉遣いで、自分の部屋に異世界とつながる領域と安全な領域とをつくっていたりする。
「私」と犬井は、神様にも悪魔にも会ったことがあると自称するタカソウこと高林蒼子と、彼女を慕う新田アスカという女の子、そして救急車のサイレンの音を聴くと思わず祈るくせのある野球部の鈴木くんの3人と、たびたび集まる仲になっていく。
 犬井の家に集まった彼らは、互いに同じ神を信じて祈りをささげる、「宗教ゴッコ」を始める。――と、ざっくり書けばこんな感じ。


 25歳の「私」は会社を辞めて、タイ行きの飛行機に乗り、東南アジア旅行へ出発する。会社に勤めながら、ずっとひとりで昼食をとっていた「私」を、何度も食事に誘ってくれていた、ミカミさんという男性とのメールのやりとりが、旅行の合間も続く。
 そこには大きな恋愛感情が特にあるわけでもなく、現地の食事や会社の様子など、とりとめもない会話がほとんどである。


 あらすじを要約しながら思い返してみたら、「宗教ゴッコ」は多少異質かもしれないけれど、そんななかでも物語をぐらっと揺るがすような大きなできごとはほとんど起こらなかったことに気がついた。
 それはやっぱり「私」の生きる世界が浮世だからであって、神のいるであろう天を見上げていても、両足はしっかりと大地を踏んでいるからなのだろう。
 しかし、紛れもない現実を、斜めから切り取ってみせる彼らのやりとりには、幾度となく目を瞠った。当たり前の現実にこそ、浮世離れしているように思える違和感が満ち満ちている。みんながやっていることに疑いもなく賛同して、多少の我慢をしてでも周りとうまくやっていこうとする姿勢、それは果たしてふつうのことなんだろうか。


 人間関係に悩む経験のなかで誰もが考える違和感に対し鋭敏で、さらにそれをはっきりさせないままにしておくことへのやるせなさから、小説は生まれてくる。そういう側面がある。それが「私」の考え方の大枠だけでなく、細部まで描きこまれていることが素敵だと思う。細部を切り取る言葉が、そのリズムが鮮やかだ。句読点の打ち方だけで、真似できないものを感じとってしまう。


 と、大体漠然と感じ取ったことを文章してみた。なにかすごく、言葉にしにくいもの、あるいは言葉にできない関係がそこにあるような気がして、感想もそんなにうまく書けた自信がない。
 でも、言葉にならないものを描き出せてこそ小説であって、もうすっかりナオコーラさんの小説が好きになっている。そのルーツがどのようなものなのか、現在、エッセイの『指先からソーダ』(河出文庫)を読んで考えているところである。