あとがきと読書記録

 一昨日はなかなかよくわからないものを唐突に書きましたが、一応ああいうものを書くに至った経緯というのがちゃんとあって、今日は少しそれについて書こうと思います。


 先日、書かれた「私」と書く私というような、同じもののようで別個の存在としてある主体を、形而上学的な視点から描き出した小説を読みました。


 金井美恵子[著] 『ピクニック、その他の短篇』(講談社文芸文庫


 どこの大型書店でも見かけないのでおそらくもう絶版なんじゃないかと思うんですが、偶然京都の某巨大書店Jにて発見(というか発掘)して、すぐさまレジへと持って行きました。
 金井美恵子氏の小説はまったく読んだことがなかったのですが、読みたくなった理由というのが二つほどあって、一つは堀江敏幸氏が解説を書かれている点――その解説が収められている評論集『書かれる手』(平凡社ライブラリー)をすでに読んでいた――と、もう一つは小川洋子氏が影響を受けた作家であるという点です。


 読み終えたのは5日ほど前なんですが、買ったのは先月の下旬です。買ってから読み終えるまで、ちゃんとその本に向き合う時間をつくっているのに1週間かかりました。正直言ってこれほど読むのに時間を要した短篇集というのは初めてでした。
 読みやすいものもありながら、詩的に書かれた文体と実験的な物語上の試みとをまともに追いかけるのが困難な中編もあり、一応は読み通したのですが、理解できない部分が多いまま読了したせいで、何か靄のようなものがずっと頭の片隅に浮遊している感覚がありました。それ以降うまく読み書きができない気がしていたぐらいです。
 読解しきれていないにもかかわらず、その靄のような、強く残り続ける余韻というのが確かにあって、それはおそらく、小説を書くという行為そのものに焦点を当てられた、書かれた「私」という主体をめぐる短篇が多く収められていたからではないかと思います。


 さらには、そんな金井美恵子氏の作品の余韻が、先月の試験期間中に読み込んだ松浦理英子氏の短篇「葬儀の日」におけるふたりの「私」の存在を頭の中で呼び起こし、その影響に呑み込まれることを承知で何か書きたいという思いが日を追うごとに膨れ上がっていったというわけです。
 一昨日書いたもののなかに「川」という言葉を書き入れたのも、それを示すためだったりします。


 こうして読んだ本に影響されることはよくあることですが、なかなか今回は強烈で、自分でもここまで引きずるとは思っていませんでした。現在、そこから抜け出るための本を探してます。小川洋子さんの新刊『原稿零枚日記』(集英社)が気になってます。