もう一度、書くことは生きること

 書くことは生きること。何かを書こうとして、考えても考えても出てこなかったり、まとまらなかったりするとき、しるべのように心の奥に立つ、その言葉の前に戻る。心の中にある思いを練り上げ、文章にすることを長らく怠ってきたことを恥じ、佇むことしかできないでいる自分の前に、過去の自分自身の言葉が静かに浮かんでくる。誰のものでもない、他ならぬ自分の言葉で刻んだその座右の銘は、荒野のような孤独にあっても揺るぎなくそこにある。長く書かなくなっても、書くことは生きることだと強く思い続け、書けないまでも読むことはやめるまいと生きている。かくあるべしと凝り固まった思いが、よりよく生きるための変化を拒んでいるように見えたとしても、言葉に触れ、考え、書き続ける自分でいたいという思いは消えない。

 何を読んだときだったか、あるいは読み続けるうちにそう思うようになったのか、ひとの心を真に揺り動かす文章は、書き手がその命を削り、燃やして書かれたものなのだと、確信した瞬間があった。語彙を得て、適切に選び、丁寧に使っても、並べられた言葉が厚みを持たず、響かないのは、読んで考えて書くことへの真摯さをもっていないからだとさえ思った。書き続けて生きるには覚悟がいる。その意味では、言葉だけで生きていくための覚悟は自分には足りない。知識も力量も、努力の量も足りないと思う。とはいえ、生きることそのものが覚悟の連続で、人前でしゃべる仕事を気づけば8年も続けているのだから、もうそろそろそこにも多少の自信や誇りを持ってもいいのではないかとは思っている。書くことは少なくなったけれど、日々、自分の言葉で勝負しているとは言えるのではないか、と。

 そんなふうに、書かなくなった自分を慰めるように綴ってみたとき、沈黙を続けていた自分自身の声が、どこからともなく響いてくる。「書くことは生きること」、心に刻んだ碑文に声が宿り、自分自身に問う。書かずに生きていて、本当にそれでいいの?とまっすぐに問いかける。その問いに対して、「仕事をして生きる自分だって、他でもない自分なのだ」という返答は意味をなさない。その答えに、それを言い放つ自分がいちばん納得できていないことを、言葉にする前からわかっているからだ。ならば、どうして書くのだろう? どうして書かなければならないのだろう? と考えたとき、浮かび上がる答えは明白で、どうということはない。「それが生きることだから」と聞こえてくるのだった。

 誰にともなく綴られる自分自身との対話が、こうして息を吹き返す。