表現が、誰かにとっての何かであるために

 前回記事はレンズの話に終始してしまったけれど、本当に書きたかったのは実はここからの話。
 
 見たひとが、引き込まれるような写真を撮りたいと思う。
 それは、現実を巧みに写し出したいという欲求であるとともに、自分の内面にあるものを現実の風景に仮託して表現したいという欲求なのではないかと最近考え始めた。文章を書くことによって何かを表現するとき、そこに伝えたい内面があるように、写真を撮ってそれを見てもらおうとするとき、そこには感じ取ってもらいたい何かがある。
 
 表現への欲求の根源にあるのはずっと、自分にしかできないことをやりたいという思いである。人間はそこに存在しているだけで無二であり、命の一つひとつにかけがえのなさが伴っているけれど、だからといってそのままなんとなく生きているだけでいいとはとても思えず、自分の表現するものが、誰かにとっての何かでありたいとずっと思っている。それを承認されることが生きる悦びになり、次なる表現への糧になる。
 
 ただときどき思うのは、その「誰かにとっての何かでありたい」というのは、自分自身が勝手にそう思っているだけにすぎず、自己顕示欲が固まってできた利己的な欲望でしかないのではないかということである。もちろん自分のためでもあるし誰かのためでもあり、そこには利己も利他も共存しているはずなのだけれど、その比率が限りなく利己に傾いているような瞬間があって、「本当にこれでいいのか」と懐疑的になってしまう。
 
 他者の幸せを自分の幸せとして感じられるというのは素晴らしいことで、自分の行ったことで誰かが幸せになるならそれは素敵なことだと言えるけれど、例えばそれが不純な動機からだったとして、その行為は善なのかという、倫理的な問いにつながってくるようなことかもしれない。不純な動機も伝わらなければ存在しないのと同じと考えるか、抱いた瞬間悪に転じるのか(神が見ていると考えるなどして)、と考えてみると、問題の方向性がそちらに向いてしまうのでこの辺りにしておきたい。
 
 話を戻せば、「本当にこれでいいのか」と懐疑的になる自分に、いったい誰が答えを与えられるのかということになる。そんなもの、他ならぬ自分自身しかいないではないかと思うけれど、それを自己肯定したら、ただの利己にまみれた人間になりはしないだろうか。
 
 だから、そうならないために他者の承認を求めてしまうのだろう。そして、その承認を得ることそのものが目的になってしまう。表現の原動力が、「誰かにとっての何かでありたい」という思いだったはずなのに、それが「誰かに承認されたい」という思いにいつの間にか転じる。
 
 思えば文章を書くことも写真を撮ることも、ずっとその両者の狭間をさまよっている気がする。誰かにとっての何かでありたいし、それをきちんと承認もされたい。問題は、「誰かにとっての何かになっていればそれでいい」と思えないことだと思う。見返りを求めてしまうのだ。だから、人に期待しないことができる人間を、本当に尊敬する。ずっとずっと、いつまでもそうなれない。「自分自身が報われること」をただただ欲している。褒められたくてさみしいという感情がそこにある。要は自覚の問題でもあって、自分の行動の目的が、ただ自身の負の感情を埋めてもらうためになっていないかを考えなくてはならない。関わる相手を主語にすること。無意識の思考の癖がよくない流れを引き寄せるとしたら、意識的に変えようと試みるほかないだろう。
 
 改めて、自分の表現が、関わる誰かにとっての何かであるために。誰かの日常に寄与できる何かを生み出すために。内側に向きつつある視線を、外側へ向けること。関わる人たちの思い描く幸せの形に重なるものを、自分が生み出せないか考え抜くこと。文章でも写真でも、表現の果てにあるものが、幸せの共有であるように。そんな軸をここに据えて、これからの表現を考えていきたい。