変わらない吸引力で変えていく日常

 あまりにも似たような不幸に遭遇するので、そろそろ何かに呪われているのではないかと思って、掃除を徹底することにした。というのも、玄関やトイレ、風呂場などの汚れが運気を下げているせいだ、とでも思わないかぎり、気持ちの持っていきどころが見つからなかったからである。誰のせいでもない不運や、不慮の事故に出くわすことは少なからずあるとはいえ、やり場のない思いを自分の内側だけで消化するには、それらの事実が重たすぎるのだった。何もかも自分が悪いと思えばそれまでかもしれないけれど、自分を責めたり反省したりして惨めな気持ちになってばかりいるのも嫌で、何かできないかと考えた帰結である。

 

 掃除とは別に、持続可能な運動習慣の模索を今年は続けてきた。1月~3月は休日のランニング、4月~8月は毎日数分の筋トレを経て、どうしても残業後の疲労や何らかの体調不良などをきっかけにそれらが途絶え、10月末から現在までは週4or5でウォーキングかランニングを続けている。歩くことも走ることも、思考の整理には都合がよくて、掃除することを決意したのも走りながらだった(付け加えるなら、9月のゲーミングチェア購入が非常に大きな影響を及ぼしている。長時間ずっと座っていられる椅子というのは素晴らしくて、明らかにそこから生活は変わった。思い立ってこれを書いているのも椅子のおかげである)。

 

 ごく当たり前のことだけれど、誰かが来るから掃除するのではなくて、いつ誰が来てもいいように掃除しなければと思って、目につくところから磨こうと思った。出費はかさむが、型落ちしてわずかに安くなったdysonの掃除機を購入し、併せていくつかの掃除用品も買った。お金をかけたのだから、それを無駄にはしないようにと思う心理で、少しずつきれいにしている。何事も、やるなら徹底的にと思ってしまうので(形から入るタイプ)時間とお金をかけているが、本来は生活の中にきちんと組み込むべき作業なのだから、そうなるように意識せねばと思った(ただどうしても自炊だけは組み込めないでいる)。

 

 掃除機の使用感は当然ながら申し分なく、エアコンの上や内部フィルター、窓のサッシ、冷蔵庫と壁、洗濯機と壁の隙間など、付属ノズルでひたすらに掃除していた。大掃除の季節にはまだ少し早いけれど、大掃除の季節には大掃除できないほど仕事が忙しくなるので今しかない。埃という埃に殺意とノズルを向けながら、一心不乱に磨き上げる。ついでに買ったばかりの掃除用品でトイレと洗面台と風呂場を本気で掃除した。くすんでいた水回りに白が際立ち、誇らしげな光沢を放った。何かが変わっても何も変わらなくても、不快感の原因になりうるものを身の周りから取り除くことは、何かしら意味のあることだと信じたい。

 

 ここ最近、ありがたいことにこのブログを読んでくださる方が増えていて(正確にはアクセス0という日が減っているに過ぎないのだけれど)、ちらっとでも開いていただけているのが嬉しい。読書以外でも何かしらの発信をしたかったので、些細なことながらこうして綴ってみた。こういうことは本来、隠れてひっそり頑張ったほうが格好いいのだろうなと思いつつ、自分が取り組んできた記録として、未来の自分のために残しておく必要があるとも思った。生きるということそのものに、格好いいもダサいもない。惰性で流れ去ってしまう日常を食い止めるには、自律的な思考の時間を確保するほかない。何より、自堕落な独身男性として死んでいきたくはない、と切に思う。