岐路

 ある一つの理想に向かって進んでいくことは、何ら間違ったことではない。目標に向けての歩みを着実に続けることが、自分の成長につながる。そう信じてきたこと自体には、何も問題はなかったと思う。
 けれど、就職活動の過程から抱き続けてきた意志が、三年目を間近に控えて揺らぎ始めている。それも、根幹から。


 納得できる場所で働くために、長い長い就職活動の果てに辿り着いた会社に、もう二年近くいる。何を目的に働くのかさえ不明確だった就職活動の過程で、最終的には決してぶれない自分の軸を見出し、確固たる自己を主張して、職を得た。


 何か一つに突き抜けていたくて、スペシャリストという言葉には憧れる。自分にしか書けない文章、自分にしか紡げない言葉、自分にしかできない考え方、そういうものに、強い憧れがずっとある。
 そして、優柔不断でも付和雷同でもない、確固たる自分、ぶれない自分でいたくて、一人前に仕事ができるようになるために、そのスタイルやスタンスを考え続けてきた。テクニックの創意工夫も練り続けてきた。自分の足で立って、確かな足取りで、歩いていけるように、未熟な自分から脱するために、研鑽を続けてきたつもりではある。


 一年目は、それでよかったのかもしれないと思う。
 けれど今、そのままではいけないのだと思い知らされている。


 自己実現のためにこの仕事をしてるの? 違うでしょう。


 向き合う相手は生徒である。彼らを自己実現のために使うことに、結果的になってしまっているのではないか。こうありたい、こう指導したいという思いばかりが先走って、思い描くものばかりを追い続けていないか。


 間違ってはいけない。われわれは、生徒の自己実現のために仕事をしている。自分のことはわきへ置いてでも、彼らの成長のために一生懸命になって本気で向き合うから、十年経ってまた会いに来てくれるような、そんな子が育つ。


 彼らのためになるなら、なりふりなんてかまわず、どんなスタイルであってもやるのだと、そういう気持ちでいないといけない。格好とか、自分の価値観とか、スタンスとか、気にしている場合ではない。


 ――突きつけられた言葉から、それまでを振り返って、改めて「自分」という言葉の多さに嫌気がさす。自分を磨いていくこと、生きていくために確かな軸をつくっていくこと、その過程そのものに生きがいを見い出す場合、仕事においてそれは、根本的に教員としてのあり方と相反する。


 言われたことは、骨身に染みてよくわかる。けれどそれを受け入れ、実践していくことは、それまで積み重ねてきたものと、決別しなければならないような気がして、ゼロの自分になるような気がして、あまりに心細く、怖い。


 でも、たった二十数年積み重ねてきたものが、一体何になるのかと、言われればそれまでなのだろう。
 変わろうと思うたび、それでも変えられなかったものを変えていくために、どうすればいいのか。何を信じ、誰を頼り、どこを目指せばいいのか。


 立ち尽くしている足元のあまりの不安定さに、怖い、という言葉が自然と口をついて出てくる。自分以外に自分を助けられないのはわかっているのに。


 もう嫌だと今思うのは、一体何に対してなのか。
 長く続けられるだろうか。岐路に立っている実感が、静かに込み上げている。