地上の楽園を夢見て

 世が乱れ、信じる心の拠り所が失われゆくなかで、ひとは何をもって誰を信じて生きてゆけばよいのか。異なる主義主張、正義と信念がぶつかり合う物語は面白く、スリリングな展開の果てを拝んだところで、「さて、お前はどう生きる?」と喉元に突き付けられるようでありながら、そんな声なき問いかけすらも感動的に覚えてしまうのが、傑作の傑作たるゆえんであろう。
 と、到底真似できない文体への一抹の憧れを表現しつつ、本題に移りたい。
 目的はただ一つ、この作品が一人でも多くのひとのもとに届いてほしい。閉塞感の強いこの時代にあって、「すべてがひっくり返るかもしれない」という期待を胸に、流麗な日本語と起伏のある物語に身を任せ、少なくとも読んでいる間は、現実世界の憂鬱を薄れさせる一助になってほしい。そして、人間の想像力がなしうる可能性に、しびれてほしいと思う(※以下の感想にネタバレはありません)。
 
 石川淳『至福千年』(岩波文庫
 
 幕末の江戸で、隠れキリシタンの更紗職人、東井源左の視点から物語は幕を開ける。人付き合いを減らし、普段なら引き受ける仕事の依頼を断ってまでひっそりと打ち込んで仕上げた更紗を彼が献上する先は、白狐使いである隠れキリシタンの神官、加茂内記のもと。内記の口から語られる地上楽園の思想、それは、混迷する現世においてキリストを降臨させ、清貧を体現する者である非人乞食へ布教を行い、団結して一挙に世直しを図ろうとするものであった。救済と理想郷の実現を目論む内記に敵対するは、マリヤ信仰の弘布者松太夫。内記の理想を「途方もない邪説」と断じ、彼のもとへと刺客を送る。
 
 激動の時代のなかで繰り返される両者の暗闘の果てに、どのような世界が待ち受けるのか。開国の向こうにあるのは楽園か、はたまた地獄絵図か。予想もつかない展開と、一癖も二癖もある魅力的な登場人物が入り乱れる。脱獄し、内記のもとでともに地上楽園の理想を追求する盗賊で、変装に秀でた大男、じゃがたら一角。乞食の頭を父に、遊女を母に持つ源左の弟子、与次郎。源左と親しく、与次郎の出自を知る俳諧師、一字庵冬峨などなど、個性にあふれた登場人物は枚挙にいとまがない。巧みな台詞回しが小気味よく連続し、交わされる会話にぐいぐいと引き込まれる。
 
 内記の側と松太夫の側と、視点を切り替えながら描かれる思想のぶつかり合いは、単なる二項対立にとどまらない構図を描き、うねるように進んでいく。激動の時代に伴って変遷する各々の理想に、ある者は付き従い、ある者は袂を分かちながら、それぞれの思惑を胸に秘め、自分の信じる理想郷の実現へと歩を進める。確固たる信念、信仰心は時代を動かしうる可能性を持つが、時代の動きそのものが、確固たる信念を根底から変えてしまうこともある。
 
 そんな紆余曲折、波瀾万丈の物語が、流麗な日本語に乗せて語られていくその熱量が、何よりすさまじい。
 加茂内記は白狐を駆使して人々に幻を見せながら、一人の男を現世に降臨するキリストの姿に仕立て上げようと試みる。そういったおよそ非現実的な展開と同時に、作中では桜田門外の変生麦事件池田屋事件蛤御門の変などが起こり、空想世界に浮かされそうになったところでそれを史実が繋ぎとめる。現実とは一線を画す物語でありながら、歴史が示す可能性の異様なリアリティが読み手を揺さぶり続ける。
 
 文体とその呼吸に慣れるまでは少なからず読みづらさはあれど、声に出して読みたくなるようなそのリズムに心身を委ねて読み進め、登場人物の人となりが明らかになるにつれ、気づけばその眼差しは、彼らとともに未来の地上楽園の青写真を眺めるようになる。自分自身に日本近代史の詳細な知識があればもっと深く楽しめただろうにと、知識のなさを惜しんでしまったけれど、調べながら読んでもじゅうぶんに楽しむことができた。
 
 これほどの小説があることを、そしてそれが書店から失われつつあることを考えるとあまりにも惜しい。決して娯楽として消費されやすいものではないけれど、丁寧に読んで消化することで、精神の土壌はきっと豊かになっていくと思う。この感想がどれだけのひとの目に触れるかはわからないけれど、傑作の存在を世に知らしめるきっかけの一つになればと切に願っている(立ち読みして、その若干のとっつきにくさにあきらめないでほしい、と強く言いたい)。
 
 ちなみに、一つの宗教が物語の根幹をなす物語としては、高橋和巳の『邪宗門』(河出文庫)を思い出した。『至福千年』ほどの空想性はないにせよ、こちらもとてつもなく面白い。上下巻であることが読み応えの喜びになる本である。
 美しい日本語に心を揺さぶられる経験は、やはり何ものにも代えがたく、かけた時間のぶんだけ得るものも大きい。かけられる時間と心のゆとりを見失いがちな日々ではあるけれど、目の前にある世界だけがすべてではないことを、読書によって折に触れて思い出すようにしたいと改めて思った。