とりとめのないこと

 思えば昨年11月に療養して以来、放浪記と本の感想と掌編が続いて、日記らしいことを書いていなかった。直接書こうが書くまいが、仕事が大変なのは変わらないので、それ一色になるのも避けたかった。


 3月から別の場所に行ければいいのだけれど、それは2月半ばくらいにならないとわからない。精神的には結局限界近くまできているので、上に向かって危険信号を発してみると、心なしか厳しさは薄らいだ気もしたが、根本的な解決には、どうやっても至らないと思った。


 会いたいひとがたくさんいる。行きたい場所がたくさんある。ときどき、行ってみたい場所のことや、一緒に行きたいひとのことを考える。特定の場所、特定のひとのこともあれば、漠然と理想を思い描くこともある。
 11月に放浪したように、鉄道旅行がやっぱりしたくて、どんなひとと一緒に行けたら楽しいかを想像する。保坂和志さんの小説を読んでいるせいか、別にどうということもない事柄を、いつまでも話していられる相手がいいと思う。


 本の好みや音楽の好みが合うことも、きっかけとしては大切だと思うけれど、本や音楽がなければ話すことが何もないなら、それはあまりよいことではない。
 暖炉で燃えている火に薪をくべるみたいに、読んだ本や聴いた音楽をくべていくというよりは、特別な薪がなくても燃え続ける炎を大事にしたいなと思う。何もないのについしゃべってしまったり、なんとなく心地よくてずっと聴いていたりできたら、それ以上の幸せはないだろう。
 とても難しいのはわかっているけれど。


 とりとめのない会話、という言葉も非常にあいまいで、ひとによってそれは全然温度が違う。なんでもない会話の発端をつくろうとしゃべってみた結果、どうしてそんなくだらないこと考えてるのと言われてしまったら、それはもう会話にならなくて、話が弾むことはありえない。
 雑談というのが実はとても難しいことなのだと思い知らされる瞬間がそこにある。


 そんなことを考えながらふと自分にとってのとりとめのないことに思いめぐらしてみると、とりとめのないこと以上に本の話がしたくて、まずはそこから何とかしなくてはと少し焦るのだった。