物言わぬモノとなって

 死者が語る声に耳を澄ませる物語には、幾度となく出会ってきたけれど、死者として、残されたひとたちを見つめる物語は初めてだった。


 東直子『とりつくしま』(ちくま文庫


 この世に未練を残したまま亡くなったひとが、「とりつくしま係」によって「この世のモノ」にとりつくことを許される。あるひとは息子のすぐそばに、またあるひとは母のもとに、そしてまたあるひとは妻のかたわらに。生前、最も大切だったひとを想いながら、彼らと生活をともにしたい気持ちをたずさえて、モノにとりつく。
 けれど、とりついたモノから、自分の声は届かない。自分がそこにいることを伝えることもできない。ただずっと、死者としてそこから、生きているひとたちを眺めていることだけが許される。


 ピッチャーを務める息子のロージンバッグにとりついた母、妻の日記になった夫、図書館司書の名札になった老人――死とともに、時間の流れがとまってしまった彼らは、モノとしての再会に、静かに心をふるわせる。
 しかし、決まってそこに待っているのは、彼らの死を受け容れ、彼らのいない日々を歩み始めるひとびとの暮らしなのだった。
 生きている者からすれば、最愛のひとの死を受け止めて、傷ついた心を癒し、もう一度歩き出すことは、その先に待つ人生を肯定的に見つめる証でもあるのだけれど、死者の視点から見ると、それは悲しい物語になる。
 自分のことを忘れて、新しい人生を歩もうとしているひとたちの姿。それを、モノにとりついた死者の目から見たとき、そこに込み上げてくるのは、言いようのない切なさであり、亡くなってしまったことへの悲しみである。忘れ去られてしまうことは、死者を本当の意味で眠りにつかせることなのかもしれない。


 ただ、もちろん悲しみばかりが込み上げてくるわけでもない。形見として、大切に、そのひとのそばに寄り添うように日々を送っていく温かな結末も用意されている。ひとの数だけ、生き方のかたちがあり、慈しむべき記憶がある。


 もし自分が死んでしまったとき、いったい何にとりつくのだろう。誰のそばにいられたら、幸せなのだろう。そんなことに、思いをめぐらせた。死者の物語のはずなのに、決して暗くならず、むしろきらきらとした光に満ちた言葉が、とても鮮やかな一冊だった。


 個人的には、「白檀」「名前」「日記」が好きです。