うわごと

 とりとめもないことのいくつか。


 一つめ。長時間の仕事による寝不足と疲労が原因で起こる機嫌の悪さを解消する術が、睡眠以外に見つけられないものか。納得のいかないこと、思い通りにならないことへの許容レベルが低くなりすぎて嫌になる。それを許せなくてどうするのか、と後から思うのだろうけれど、苛立ちは募ってしまう。客観視することで間接的な言語化を図ることが今のところまともな解消法か。思い余って他人に言葉を投げつけるようなことだけはしないようにしたい。


 二つめ。自分のしたいこと、選びたい道を考えるとき、「とにかく心の底から自分がやりたいから」ということだけを理由に選択することは何ら間違いではないと思う。他ならぬ自分のために、選びとった道を全力で進むのは恰好いい。けれど、最近になって思うのは「心の底から自分がやりたいこと」を実行した先に、自分以外の誰かをよろこばせることができる、という条件は、前提として持っていたいなということ。
 何かを選びとることの先に、自分の欲求が満たされる場合、その欲求が、自分以外の誰かとよろこびを分かち合えるものでありたい。自己完結の閉じられた円環の中で生きていくのはよくないなと過去をかえりみて思ったりする。今となっては、仕事の中で求めていくものに関しては、自己完結のしようがないのだけれど。


 でも、仕事というのはある意味閉じられた世界なので、自分の持っている仕事外の領域において追求するよろこびは、またそれとは異なる。仕事での充実は今さら言うまでもないのだけれど、仕事外で少し考え方を変えなければ、うまくバランスが取れない。一つめに挙げたことにも関わって、精神的に乱れる時間が不意に訪れる。身体が弱ると、心も弱る気がする。
 そのとき一体どうすればいいのか。叫びだしたいとき、何かを、自分を、傷つけてしまいたいとき。書き言葉では見苦しく、話し言葉はより醜い。
 同じ温度で受けとめてもらえなければつらさは増すのではないか、と考えてしまう一方で、同じ温度など、ありうるほうが稀なのだから贅沢を言うなとも思う。結局のところ、共感のないまま一蹴されたり、否定の意見を述べられたりすると、精神的に弱っている状況では悪化の一途を辿るしかないので、それが怖いのだろう。
 また、逆もある。投げかけられた言葉の重みを量り損ねて落として砕いてしまうようなことを、自分がしてしまうのではないか。それも怖くなる。受けとめようと歩み寄れるゆとりが、ある人間でないといけない。どちらの立場であっても。


 なるべくならば書かずにいたいと思っていても書いてしまうのは、それが必要なことだと今は感じているからなのだろう。でも別に何ということはなく、とりとめのないことでしかない。


 基本的に日々は楽しい。昨年よりもはるかに。


 けれど。