引き伸ばし、歪んだ現実の向こうに見えるもの

柴崎友香 『パノララ』(講談社文庫)

 

※感想を書くにあたり、本文の核心に触れている部分があります。あらかじめご了承ください。

 

 緩やかなようで独特な、そして鮮烈な読後感を残す小説だった。

 主人公の「わたし」(田中真紀子)は東京で会社勤め(契約社員)をしている二十八歳で、知り合いのイチローに勧められ、更新料を払えなくなったマンションから、彼の家の一室を格安で間借りすることになる。イチローの家に住まうのは、小さな建築会社の社長をしている父の将春、その奥さんで女優のみすず、イチローの姉であるイラストレーターの文、イギリス留学から帰ってきた映画監督志望の妹の絵波という木村家の面々で、「私」を含めると六名となる。家は将春が建てたもので、コンクリートの箱を縦に積んだような形の居住空間(本館と呼ばれる)に、木造部分を建て増しされた異様なもの。「私」が住むことになるスペースは、他の家族の住む場所とは干渉し合わないようになっている。

 

 成り行きで始まる真紀子の居候?(家賃は格安)生活だったが、おのおのの事情を知るにつれ、作品は家族としてあること、個人としてそこにいることがどういうことなのか、そして、そこに居続けること、ひとと関わって暮らすことの本質を浮かび上がらせる。

 

 柴崎友香作品はずっと読み続けているけれど、何でもない日常を描きながら、その中に一瞬きらめくものを逃さず書き起こした『きょうのできごと』のような作品から、緩急の劇的な『寝ても覚めても』のような作品まで、問題意識としては共通する部分もありながら、その表現においては絶えず変化を続けていると思う。

 

『パノララ』は、真紀子の生活をなだらかに描く序盤こそ淡々としているように感じられるものの、それは彼女の意識がそこで出会う人々に向いているからで、それが自己に翻ったとき、彼女もまた彼らと同じように、自分を縛る見えないしがらみのような事情を抱えていることが、読み手に明かされる。個性的な人々との交流の中に、穏やかな日常が見えるのんびりとした作品、ではまったく終わらない。

 

 将春にリビングで奥さんの自慢話を聞かされたり、イチローとラーメンを食べにいったり、文の料理を手伝ったり、絵波の話に付き合ったりはするが、仮住まいのような状態なのだから、その暮らしはいつか終わるはずで、今は大丈夫でも、もし終わったらどうするかも考えておかなければならない。そういった、現実的な不安感が、読み手にはずっと影のようについて回る。

 

 真紀子は基本的に、自分の本音を言わない。面倒なことを避けるように当たり障りのない受け答えをしたり、流されるままにうなずいたりする。おいしいと言っていいのかよくわからないというような心情描写の直後に「おいしいですね」と言う。それは周りの人物の個性を際立たせる見え透いた意図ではなく、真紀子自身の抱える事情を反映した必然なのだと、後から明らかになる。娘を自分の思うままにしたい両親の束縛を振り切り、自分に好意を向けつつ暴力を自制できない元彼から逃げ出した真紀子にとって、木村家はかろうじてたどり着いた自分の居場所になりうる環境なのだった。

 

 木村家は木村家で、その事情はあまりに複雑である。普段どんな仕事をしているのかわからないが、ひたすら奥さんを愛する将春や、そんな将春の存在がありながら、ふらっと長期間家を出る妻のみすず。この二人の実の息子はイチローだけで、文はみすずさんの前の夫との娘、絵波は文やイチローが生まれてから、みすずさんが失踪して連れて帰ってきた娘である(母親がみすずさんであることしかわからない)。

 

 家族をつなぐ最も基本的で本質的なものは血のつながりだが、彼らにはそれが半分ずつしかない。けれど、それでもそこには、歪で独特ではあるが確かに、不思議な連帯感が存在する。奇妙な家の形はその象徴とも言えるだろう。血のつながりが半分ずつであっても、そんなことを当人たちは深く考えたり表に出したりせず、おのおのが自分の思うように生きているさまは、異性との交際を許さず、実家へ連れ戻そうとする真紀子の両親とは恐ろしいほど対照をなしている。唯一無二の父と母であり、自分が存在する原因となった人間であるということが、当たり前のことなのに真紀子にはあまりにも重い。

 

 これらの人間関係が物語を織り成す横糸だとすれば、それをつらぬく縦糸は、イチローの体験する「同じ一日が二度やってくる」現象をきっかけに、真紀子が考え始める時間への感覚であろう。みすずからもらったデジタルカメラで、木村家の面々をパノラマ撮影したとき、写っていなかったイチローの姿。二回目だからではないかと話すイチローに半信半疑になっていた真紀子だったが、その現象は物語の後半で、突如として真紀子自身に襲いかかる。

 

 同じ一日が繰り返される現象の中で、「わたし」の意識はそれを自覚しながら、その一日の中で取った行動や、それに付随する思いは何一つ変わらない。二度目である自覚と、その場で新たに思う後悔があれど、何をどうやっても、直後に起こる展開も、未来も変えることはできない。それが、家族が何とか一命を取り留める一日という形で、「わたし」にやってくる。しかもそれは、二度ならず、三度、四度と繰り返される。

 

 過去の出来事でありながら、それはつねに現在形で語られ、回想の形にならない。繰り返される現在は、真紀子にとっての時系列に沿って、執拗に繰り返されていく。同じ一日を繰り返す小説で思い浮かぶのは北村薫の『ターン』だが、柴崎友香作品においては、特異なことがいくら起ころうと、それは紛れもなく現実に根ざしたものとして、確かで異様なリアリティをもって語られる。

 

 さらに、無限にも思えるループの中で、現在と過去が混じり合い、自分のいた時間といなかった時間が溶け合う。あるはずのない現在と、ありえたかもしれない未来とが重なり合いながら、「わたし」の意識を混乱させていく。しかし、その円環をめぐる過程は、真紀子が自らの意志で自らの生き方を決めるための契機になる。煩わしいことから逃れ、自分を脅かすものに背を向け生きてきた真紀子が、その先で直面する空虚な「本当の自分の意志」を自覚し、自分は「本当は」何をしたいのか、どこにいたいのか、どうありたいのかを、自らの意志で語れるようになるための、一種のイニシエーションのようである。

 

 すべてが解決したわけではないにせよ、無数の葛藤を経て心から決意した真紀子の一歩と、それを確かな肯定をもって「おかえり!」と迎え入れる木村家とのやりとりを、胸のすく思いで読み通すことができた。素直に、自由に生きることの難しさと、自分の生を自分のものとして肯定的に受け入れる困難さを、この小説は浮き彫りにするけれど、血縁によらない共同体としての「家族」のあり方を示しながら、生きがたい現実を懸命に生きる人間そのものが、そこには確かに存在していると思った。不思議な家族関係の横糸と、繰り返される奇妙な時間感覚の縦糸は、現代を生きる人間の姿を立体的に浮かび上がらせている。

 

 と、なんとなく大筋に基づいて感想を書き綴ったものの、柴崎作品における白眉はその登場人物たちの個性を鮮やかに彩る細部である。無意識のこだわりが見える服装や、食パンをかじる部分に見られる些細な描写は、読んでいてたまらない。ただ、長くなってしまったので、『パノララ』に関してはこの辺りでとどめておきたい。素晴らしい小説だった。