現代に打ち立てられた説話

 時間は一本の線のイメージとして捉えるべきものだろうか。過去から現在、そして未だ来ない時に向かって、抗えない流れのなかをわれわれは生きているのだろうか。
 われわれのいる場所を現実と呼ぶならば、それは正しいかもしれない。
 けれど、物語は、あるいは語られた虚構は、一般的な時間の概念など軽々と飛び越え、自分が立っているのか現在かどうかすらわからない時点へとわれわれを連れ去っていく。


 津島佑子[著] 『ナラ・レポート』(文春文庫)


 構図が入り組んでいるため説明が厄介なのだが、物語の始まりをまとめてみるなら以下のようになるだろうかと思う。
 主人公はモリオと呼ばれる12歳の少年で、彼は2歳のときに亡くした母の記憶を求めて、霊媒師に母の霊を呼び出してもらうよう頼む。
 母は29歳のとき、旅先の外国にて35歳の父と出会う。父には日本に残した妻がいたのだが、それをわかっていながら惹かれた母は、モリオを腹に宿し、帰国する。そして、父である男にその事実を告げないままモリオを出産するのだが、母はまもなく胃ガンを患う。胃ガンであることが判明したとき、母は父である男に対して、自分が死んだらモリオを頼むと告げる。それきり二人の交渉が途絶え、父は残された2歳のモリオをナラに住む自分の母親に押し付ける。
 こうした背景がモリオにはあるからこそ、母への恋しさは肥大し、自分の置かれた状況を憎み、それをナラという場所が悪いのだと彼は考えるようになる。ナラという場所に、このままでは自分は押し潰されてしまうのだという恐怖に突き動かされ、モリオはナラを象徴するシカにナイフを突き立てる。
 あるとき母の霊がハトに憑依して、モリオになぜシカを殺したのかと訊ねるのだが、彼はナラを壊したいのだと答え、そして言う。大仏をこわしてよ、と。とんでもない理屈だが、すべての元凶がそこにあるとでも言うように。
 しかし、大仏を破壊するため向かったトウダイ寺で、モリオとハトの母親は、黒い球体が大仏にぶつかり、粉々に砕け散る瞬間を目撃する。
 堀江敏幸氏の解説を借りれば、そこから飛散したのは、「『閑吟集』『梁塵秘抄』『説経節』『催馬楽』『今昔物語』『日本霊異記』といった、正史の外からやってきたいわば周縁の言葉のつぶて」だった。


 ここから時空間はよじれ、歪み、悲壮な運命に苛まれる母と子の構図はそのままに、名前や境遇を変えてもめぐる、輪廻すら超えた時間の輪の中で、彼らは中世の世界を生きながら未来を懐かしみ、何度も生まれ変わってきた過去を振り返る。


 入念な下調べに基づいた物語は、重厚で強靭な文体をもって語られ、読み手を冒頭からその世界に引きずり込む。過去も未来も曖昧になり、主人公の立っている場所が現在なのか、それともそれは回想の一場面なのかもわからなくなり、やがてそれが夢か現実かさえもあやふやになる。既成の境界など超越して、互いを想う母と子の物語に身を委ね、読み手はただ語られる言葉に耳を傾けるしかない。
 遠い過去の記憶が重なり合って、母と子の深い愛情は祈りのように響く。


 現実世界を切り取って、それまで見たこともない角度から提示することで、新たな言葉を読み手に与えるのも小説のひとつのあり方だけれど、この小説のように、現実に似て非なる堅牢なひとつの世界を新たに創造し、場所も時間の概念をも覆しながら伝えたい思いをそこに乗せることもまた、小説のひとつの神髄だと言えるだろう。
 とてつもない力量と、表現力、想像力をもって書かれた作品だと思う。一つの小説を生み出すためにかけられた時間や労力の膨大さを思い、著者のその真摯な姿勢に敬服せざるをえない。


 小説を書くことは、それがどんなものであれ、一つの世界を打ち立てることである。現実を描いていてもそれは、書き手が見た一つの世界の表現だと言えよう。とてつもない小説を読むと、それは生半可な覚悟で書くものではないという畏怖すら生まれる。今この時期に読んだからかもしれないが、津島さんの小説は、間接的ではあるけれど、書き手としての姿勢を問うてきたように思えた。


 いいものが書きたいと、そればかりを思って読み続けてきたものの、書くことに対するハードルがしだいに高くなっているように感じられる。もう充分すぎるほど身体を屈めたと自分では思う。そろそろ一度跳び上がって、どこまでいけるか試さなくてはならない。