夢と現のほとりから

 嘘みたいなことが本当になり、確かだと思えた現実が夢のように遠ざかった2020年。
 
 そんなことを思いながら、福永武彦の随想「夢のように」を読み返す。
「夢のように」という表現は、夢そのものでなく、受け入れがたい現実に対して使われる比喩表現である。一つの夢から目覚める瞬間は、過ぎ去った物事を、流れではなく物として実感する瞬間のことだ。けれど、その記憶は手触りを感じた途端に儚く消えてしまう。そして起きてもなお、その現実もまた長い夢のひとかけらなのかもしれないという思いに駆られながら、ひとは不確かな人生に身体も心も委ねていく。
 
 眠っている間に見る夢も、夢から醒めた後にやってくる現実も、何もかもが消えてしまうから、だからこそその悲しみに抗うようにして、写真を撮るのかもしれないと思った。
 カメラを持って出かけ、「夢のような」景色にシャッターを切るのは、消えてしまう記憶を、消えない記録として残そうとする試みである。それがたとえ、自分が生きている間のささやかなひとときだとしても、独りでそっと消えていくのではなく、流れ去る時間の川面にわずかな波紋を立たせて消えていきたい。揺らぎは微かな淀みを生み出すだけで、そこに浮かんでは消える泡沫が人生なのかもしれないけれど、水面で弾けるその泡沫が、緩やかに流れる川にきらめきをつくる。
 
 言葉も写真も、夢や幻のようなものなのかもしれない。それはつねに余韻として、記憶の残滓として現れる。
 自分が生きていくうえで為したことが、誰かの人生にとって、せめて微かな余韻になるように。花火の後、残光になって現れる彩りが、闇夜の不安を和らげてくれるように、儚い自己表現や発信が、どこかの誰かのもとで光を放つことがあれば。
 
 不確かな日々を、確かに生きているという実感をただ命綱にして、2021年、前に進んで行けたらと思う。
 
 本年もよろしくお願いいたします。