思いつきの京都観光記録

 就職して10年目なのは心の片隅にあるのに、「大学4年だった2010年って10年前なのか……」とその時間の長さを思って何とも言えない気持ちになった。正確なところでいえば、内定の通知からはほぼ10年が経つ。過去を振り返って内省的になっていろいろと考え込む文章は、これまでもたくさん書いてきたので、似たような振り返りを書くつもりはない。とはいえ、無事に仕事を続けており、(小説はあまり書けていないが)文章を書く行為も辞めることなく今に至っているのは、なかなか大したことなのではと思ったりはする。
 
 さて、本題へ。日記らしいことを綴るために、10月を振り返りたい。
 今月、休日の水曜には、今のところ3週連続で京都に撮影に出かけることができている(天候と体調に恵まれたことと、写真による自己表現の意欲のなせるわざである)。紅葉が始まるまでに、行こうと思っていて行っていないところをなるべく訪れようと思って出かけることに決めたのだった。
 そういうわけで、その感想をまとめておきたいと思う。
 
 嵐山には何度か来ているわりに、天龍寺に行ったことがないことを思い立ち、午後から雨の予報なのも顧みず決行した。本当は常寂光寺にも行きたかったのだけれど、天龍寺の庭園に呑み込まれるようにしてとどまっていたので、常寂光寺の門前まで行って、祇王寺を選んだ。天龍寺の本堂、庭園もさることながら、苔に満ちた祇王寺が本当に美しくて、それほど広くないことがかえってその空間を別世界にしているようで、とても居心地がよかった。閉門間際、着いた頃には雨が降り始めていたものの、納得のいく構図を探して写真を撮り続けた。苔と紅葉のコントラストを、ぜひ見てみたいと思った。
 
南禅寺・天授庵・永観堂禅林寺
 大学時代に京都へ通っていたのに、全然観光地を巡っていないことを大いに反省しながら南禅寺に向かった。地下鉄の蹴上駅を出て、とりあえずという感じで蹴上インクラインへ立ち寄り、線路を眺める。写真を数枚撮るが、「映えを狙う人々」に紛れるのがあまり快く思えずその場を後にした。
 南禅寺に行って、その立派な門を撮影し、水路閣へ。そこにもまた「映えを狙う人々」がいて、ああ、という気持ちになる。一応、定番の構図を撮りはしたが、そのまま南禅院の庭園へ。こちらは水路閣とは対照的に、人が少なかった。にもかかわらず、その庭園の池に映る緑の美しさに見入る。水路閣よりこちらのほうが映えるのでは、と思うなどした。
 そして、その後訪れた天授庵が最高だった。ちょうど夕陽が差し込んでくる時間帯。南禅院と同様、庭園には池があり、桟橋が掛けられている。広範囲にわたるリフレクションの輝きに、水路閣の記憶が消失する勢いで目を奪われた。塀に覆われ、外からはこの庭園のことなど想像もつかなかったがゆえに衝撃は大きく、もっと有名であってもいいのではと本気で思った場所である。編集して見返した写真は、水面に映る景色が現実とほぼ完璧に反転しており、上下を逆さにしても違和感がないと思えるものだった。
 最後に訪れた永観堂は、堂内の撮影が禁止されていたこともあり、写真は多く撮れなかったのだけれど、染まり始めた紅葉を見ることができた。ここに限らず、紅葉の季節、夜間拝観ができる場所には、積極的に出向きたいと本気で思った次第。行きたい場所が増えてきて悩ましい。
 
建仁寺清水寺・八坂神社・知恩院
 2002年に描かれた天井画「大双龍図」を見てみたくて建仁寺を選んだために、めちゃくちゃベタな観光ルートをたどることになった。産寧坂で振り返る八坂の塔や、舞台を横から見る清水寺など、撮った写真を見せるのがちょっと恥ずかしいくらいにベタなものを撮り、職場の京都通の人に、「うわー」と言われるなどした(「ですよねー」とこたえた)。とはいえ、ベタだからという理由で10年くらい避けていたので、カメラを手に訪れることができたのは、個人的にはよかったと思っている(ベタなのに全然行ったことがないというのもどうかと思うし)。ただ、当然ながらこの近辺は「映えを狙う人々」で溢れていたので、しばらくは行かないでおこうと思った。
 八坂神社と円山公園を通って訪れた知恩院は、荘厳で静謐だった。こちらも閉門間際に駆け込んだので、写真はそんなに撮れなかったのだけれど、大学時代には行っていなかったので、とりあえずこれで「行ったことがある」と言えるようにはなった。
 
 
 途中、観光を楽しむ人々を横目に、ひとりでいる自分を痛切に感じる瞬間があり、とてつもなく寂しくなってしまった。
 祇王寺や天授庵では、ひとりである自分自身と向き合うように写真を撮ることができていたのだけれど、観光地の筆頭である清水寺付近では、どうしても楽しそうな人々と対照的な自分を自覚してしまうのだった。その自覚に触れたとき、「ああ、だからそれほど来たいと思わなかったのかもしれない」と気が付いた。水曜日という平日が休みなのを活かして、人の少ないであろうタイミングでひとりで行っているのに、「なんで自分はひとりなんだろう」と考えてしまう。それに慣れてしまったはずなのに、突然こみ上げる孤独のさみしさを振り切るようにして帰路についた。
 
 人に誘われることがほとんどない人間なので、基本的には自分から誰かを誘うのだけれど、最近それが億劫になっている。新しい関係性を築こうとする過程で、断られ、後が続かなくなるのが怖いのだと思う。前回記事に書いたような「関係性が断ち切られることへの恐れ」というものを、完全に拭い去ることができないでいる。
 
 今まで、一度会ってそれきりになった人も何人かいて、それはそういう縁だったり、合わなかったりしただけのことだと割り切ることはできても、そのつどそのつど傷ついてきたことをなかなか忘れることができない。相手のせいではないと思っているし、実際に自分の落ち度だとも思うので、気を引き締めるか気を抜くかに関係なく、自分の側にあるもののせいで、その関係性の継続を望まれずに終わっていくことが、本当に怖い。
 
 でも、だからといってその恐怖心を人質のように見せつけながら他人に接するのでは、同じことを繰り返してしまいかねないとも思う。
 孤独のさみしさに耐え続ける選択ではなく、他者との関係性の構築を望む以上は、それでもなお、自分からの働きかけをやめずに続けるしかない。何もかも、何がどうであろうとも、それはそうなる縁だったのだとやっぱり言い聞かせるしかないのだと、一周回って思い直すのだった。
 
 清水寺で気休めに引いた縁結びのおみくじは大吉だったのだけれど、果たしてどうなんだろう。