デジタルで撮る人間の戯言

▼小説の没原稿


 立ち止まってカメラを構え、右目でファインダーを覗く。太陽の光は斜め後ろから差し込み、レンズの向いている先の紅葉に降り注いでいる。ピントリングを回す。ぼやけていた視界に、赤い葉の輪郭が浮かび上がってくる。もう少し、と思いながら親指を数ミリ動かし、葉脈が鮮明に浮き立ったところで、捉えている四隅に目を凝らす。しなやかな枝ぶりはその色、形ともに申し分なく、背景にあるのもまた、無数の紅。これでいい。両手をそのまま動かさず、丁寧に人差し指に力を込め、シャッターを切る。早朝の公園に小気味いいシャッター音が響き、その確かな振動が、右手を伝って身体全体をめぐる。


 カメラの背面モニターに、撮ったばかりの画像が映し出される。自分の見ていたものと、見ていたのに気づかなかったもの、そして、自分が見ようとすらしなかったものが、一つの答えとなってそこにあった。右下から伸びる幹の生命力が、樹皮に刻まれた陰影から伝わってくる。いくつも枝分かれしながら、太陽の光を求めて重ならないように茂る紅葉は、その色の絵の具に枝ごと浸して持ち上げたような瑞々しさを湛え、先端まで紅く染まっていた。それらは傾く日差しに照らされることで、少しずつ重なり合う部分にその光を満たしつつ、溢れんばかりの輝きを放っている。


 その克明さに思わず見入ってしまってから、けれどもそれが、目の前にある風景を写しとったものであることを思い出すようにして、もう一度肉眼で正面を見た。かすかに揺れる枝は、物言わずしてその存在をどこか誇っているようにも見える。写真に記録されたのは、静止した状態の枝ではなく、朝の空気の流れに揺られる枝の、呼吸であり運動である。芽を出してから枯れ果てて朽ちるまでの間にいくたびか訪れるその瞬間のうちの、わずかな一コマを、今自分は手中に収めた。そういうことになる。
カメラとレンズを通し、自然と対峙することは、光を介した自然との対話とも言えるが、傲慢にも自然から人間を切り離して向き合っているのだから、文明の生み出した産物を手にしながらも、われわれは決して謙虚さを失ってはいけない。
 と、主語が大きくなって思考の歯車が別の歯車を動かしかけたところで、もう一度撮影した画像を見た。よく撮れたとは思うものの、それは正解ではない。写真で得られるのは見ているものの解答ではなく、見られているものからの回答である。そんなふうに最近は思う。
 

 撮れば撮るほど、何かを考えてばかりいる。携帯電話やスマートフォンで済ませていたときは、そんなことは一切考えることなく、直感に反応する景色に何気なくレンズを向けていただけだ。ある意味ではその頃のほうが、純粋に自然と向き合っていたのかもしれないけれど、結局なぜ、自分がこうして写真を撮っているのかは、うまく言葉で説明ができないのだった。撮り続ければ何かがわかるのか、ますますわからなくなるのか判然としないけれど、今はこんなふうに、シャッターを切ることが楽しいという事実で事足りている。