前提を覆す

 書き言葉を持たずに生きるひとの言葉は、時としてとてつもなく価値のあるものとなる。そんな気がしている。多くのひとがブログやTwitterで自分の思いを言葉にしていて、初対面のひととのコミュニケーションにはおいては、思考の流れや日常をより深く理解し合うためのものとして、それらは活用されることも多い。
 文字化された言葉、つまり、可視化された思いの集積が、ブログやTwitterである。ただ、何もかもを言葉にできるわけでは当然なくて、いくら書いても思うことの半分もかたちにならない苦悩もそこには寄り添っていて、無理に書こうとすることが不毛に思えることもある。


 そんなときふと考えるのは、あまりに書くという行為が強固な前提として凝り固まっているのではないか、ということだったりする。書くという行為が日常となっていると、ブログもTwitterもやっていないひとの気持ちが想像できなくなる。どうしてどこにも何も書けずに生きていけるのかわからない、などと極端なまでに思うこともある。


 けれど、そういうひとがたまにメールなどで発する書き言葉は、見慣れないだけに強力なものを感じる。書き言葉が見慣れないというより、書き言葉の声を聞き慣れないといったほうが正しい。


 絶対に無理だが、書き言葉を持たないゆえにかっこいい人間になってみたいなと思う。思念の渦巻くネット上に投げる言葉は持たず、現実の人間関係に投じるメールや手紙のみに書き言葉はとどまり、基本的に自分の声をともなう言葉だけで生きながらも、何の不便もなく、広い交友関係の中で生きるような。
 そういうのをリア充と呼ぶのだろうし、仲良くなれる気もしないが、人間的な魅力を備えた、現代では希少価値の高い人物を、一度小説で書いてみたい。


 書くことは生きること、というのを信条に掲げている自分とは逆の人間像を考えてみたとき、そんな人間が浮かんだ。憧れは憧れでしかないが、抱え込まざるをえない感情を、書き言葉に頼らず消化できる強さを持つひとは尊敬できる。尊敬もできるが、反面、自分にできないことをされている悔しさや嫉妬といった醜い気持ちが芽生えることもある。


 人間は、自分と正反対の人間と補い合うこともあれば反発し合うこともあるし、自分に近く、似ている人間を好むこともあれば、同族嫌悪の念を抱いて憎み合うこともあって、つくづくよくわからない。


 先日カフェで、正面の二つ前の席に座った男性が本を読んでいて、(よく見ると全然違うのに)妙に自分と見た目が似ていて、どことなく気持ち悪く、イラッとしてしまった。
 この「どことなく気持ち悪く、イラッと」した思いが、あまりに自然に出てきたので戸惑った。似ているせいで自分だけが嫌だと感じるのか、それとも自分と同じように周りのひとも自分みたいな人間を見たらイラッとしてしまうのか、後者であれば恐ろしすぎるなと考えつつ、コーヒーを飲んでいた。他人に自分の口調や言葉を真似されてカチンとくる感情に似ているのかもしれない、と後から思った。


 少し考えたことを書いてみたものの、うまくまとまりそうにない。
 着地点の見えないまま書き終えるというのは非常に心苦しいが、この話題に終止符をどう打てばいいのかもよくわからないので、考えがまとまり次第、改めて書こうと思う。