雑文

 追うか追われるかならば、間違いなく追う側なのだが、人間関係を構築していく過程の中で、互いの認識レベルで親しさを確認するのはすごく難しい。
 親しくなりたいという思いが空回りしたことはかつて幾度となくあって、そのたびに陥った自己嫌悪を、振り払っても振り払っても確固として残り続ける自分自身と、見えない闘いを繰り広げてきて今がある。


 季節は移ろい、世界は回るのだから、人だって変わる。無常観などと言うまでもなく、人と人との関係に安定性を見出すのはそうたやすいことではない。過ぎ去ろうとする人にすがりついて、離れた手に残るわずかな温もりをいとおしみながら、狂おしいぐらいの後悔に包まれることもある。奇跡のような出会いによって芽生えたつながりを、一方的に慈しもうとして悲劇が幕を開ける。
 筋書きを捻じ曲げたのはほかならぬ自分なのに、どこを探しても正しいペンは見つからない。関係を育み保つことが本当に難しいのだと、少しばかり生きてきてよくわかっているつもりである。だからこそ、微かでも亀裂のようなものだったり、薄暗い何かの予兆だったりが目の前をよぎれば、つなぎとめておきたくて必死になる。
 必死になることで、状況を悪化させたことはこれまでだってあったはずなのに、何もしないでいることの難しさを、際限なく突きつけられるのだった。
 それをじっと受け入れられることが、大人になるということなのだろうか。いまだにわからず、長い長いため息をつきながら、時計の針を黙って見つめているしかできない。
 何もせずにじっとすることは、果たして停滞と言えるのだろうか。
 雨の音に耳を傾けるように、一つの場にとどまりつづけることは確かにできても、流れ続ける時間の上で停滞することなど、実際は不可能である。轟く雷鳴はやみ、雨は上がる。雲間から、光が差す。心の奥に吹きすさぶ砂嵐も、そのうちやんで凪がやってくるのかもしれない。


 結論めいたものが出るなら、ここに書き連ねた言葉は意味を持たないだろう。確かなのはただ、時間が流れていくことのみ。けれど、少なからず待ち受ける微かな変化の向こうに何が見えても、すべてが移ろいゆくなかに美を見出した古人の言葉に沿うようにして、命を刻むごとく自分だけの言葉を刻み込んで生きたいとは思っている。


 何を書きたくてこれを書いているのかわからないのに、何かを書きたいという意志だけが、言葉を生み続ける。やはり、何もしないでいることが堪えがたいのだろうと思う。前向きでも後ろ向きでもなく、時間が流れていくほうに向かって、延々と紡ぎ続ける。生きた証でもなく、消極的な遺言でもない、漠然とした雑記。
 言葉は時としてあまりに無力で、それがたまらなくかなしい。


 できることを行うしかないのだけれど、できることが何なのかわからないから書いている。そんなふうに思いながら、誰かに読まれるためでもない何かを書き続けている人間を主人公に据えて小説を書いたらどうなるのだろう。完結することのない、不完全燃焼の紙片として消えていくのかもしれない。


 大切にしたいもののために、自分にできることは何なのか。
 失いたくなくて、不安を拭い去れなくて、書くことしかできない。書いたところでどうなるものでもないけれど、淀んだ思いを外に出さないことには、得体のしれないおそろしさに押しつぶされかねない。
 暗くて重たい気持ちを明るく変換する方法は、一応備えているけれど、暗いとか明るいとかいう次元を超越してどうにもならないことだって存在する。


 移ろいゆく時間に身を委ねること、大人しく待つことは、本当に難しい。迷うぐらいなら行動すべきだとここ数年で叩き込まれたのに、待つことが最大の行動となってしまっている。


 締めくくりらしい言葉すら、見つからない。