悪しき楽観主義へ

 さて。先週の水曜に受けた2つの面接が、最終のほうも二次のほうもだめだったわけですが、相変わらず心境は混沌としています。持ち駒がなくなったため、またゼロから始めるほかない状況となりました。


 相当な自信を持って臨み、手応えもある程度感じた面接だったので、このような結果は正直予想していませんでした。最終のほうから先に不合格の通知をもらい、その瞬間、もしかしたら二次のほうもだめかもしれないという気がし始めて、その結果が来るまでの2日間、気が狂いそうになるほどでした。何度か日記を書こうと思ってはいましたが、パソコンに向かっても焦りしか言葉として出てこず、何かを書ける余裕すらなく、とにかく逃げるようにワールドカップを見ていたり、本を読もうとしたりしながら気を紛らわせていました。
 結局、悪い予感の通り合格の電話は鳴らず、自宅のパソコンに不合格のメール。文面を読むまでもなく落胆し、事務的な文字の羅列にまざまざと現実を突きつけられて、一瞬真っ白になった頭の中に、処理しきれないほど様々な思いが去来し、どうすればいいかではなく、何を考えればいいのかがわからなくなりました。


 一応、2日が経って少しは冷静に振り返られるようになり、早朝の日本選手のプレーにも若干背中を押されるようなかたちで、今日は大学に行きました。こんな精神状態で、相手にとって迷惑ではないかと危惧しながらも、友人に会って、現状分析と助言をいただきました。


 面接の前後、完璧だと言ってしまいたくなるほど自分に自信を持っていたのは、改めて振り返っても事実です。ただ、人間として、完璧というのはありえないわけで、現に面接の結果がそれを証明しています。単純に、企業と自分とが合わなかったから落ちたのだと、言ってしまうこともできるし、ある意味正しいとは思います。
 けれど、立ち止まって冷静に考えるなら、その自信を構築していく過程に、ずいぶん問題があったのではないかと、友人との会話のなかで気付かされました。


 自信を練り上げる原動力となった前向きさは、今さら変えることもできない自分の性格だと思います。しかし、どんな状況においても前向きに物事を捉えられることを、第一に推すべき絶対的な長所だと、確信を持っていた時点で、それを裏返したところにある短所に見向きもしなかった自分がいました。
 ポジティブすぎると指摘されながら、ネガティブであるより全然いいんじゃないかとそれを聞き流していたところにも、それは現れています。良い面も悪い面も含めて自分であって、短所は短所として把握し、それに自覚的である必要がある、と言葉で理解はしているつもりでしたが、実際できていなかったのだろうと思います。
 これまでの人生において、意識的な場合もあれど、ほぼ無意識に、自分の悪い面は見ないように見ないように生きてきました。苦労を苦労と思わないとか、どんな状況でも前向きにというのは、人に指摘されたくない不都合な部分や、常識への無知や勢い余った過失などといった恥ずべき至らなさから、必死になって自分を守ろうとして築いていた砂上の楼閣です。本来は砂でつくり上げられるその城壁を、容易には崩れないよう固め続けた結果、それは絶対的な自信と呼ばれるにいたりました。
 本当の自分はそんなに立派なものではなく、指を差して馬鹿にされたり、そんなこともままならないのかと注意されてしかるべき部分も数多くあるのです。それが自分だけで完結しているなら特に大きな問題でもないでしょうけれど、残念ながら、過信と言えるほどの前向きさは、他人にも少なからず影響を及ぼします。


 友人から「親切すぎる」と言われたことを踏まえながら省みれば、自分の弱さを棚に上げて、それほど誇るべきでもない経験を厳然と土台にして、誰かの世話を焼くことが多々あります。その場合、親切にする側である自分が、される側に対する優越感を抱くことを目的とした行為である、という側面が少なからずあることに、ほとんど目を向けようとしないたちの悪さがここにあります。ただでさえ大したことのない土台なのに、それを補強するために他人に親切を働く場面は、自覚しようとしていないだけでずいぶんあります。
 実際に誰かの役に立って、感謝されるケースも多いからこそ、一概にそれが悪しきことだと言い切ることはできないにしても、あまりに無自覚ではないかと改めて感じます。それは、かりそめの前向きさに拍車をかける行為です。自分の良い面を使って誰かの役に立とうと躍起になることで、悪しき面から目を背け、消えない短所を長所でかき消そうとする傾向が、性格としてしみ付いているのです。


 人から何を言われようと、都合の悪い指摘には耳を貸さず、自分にはこんな長所もあるのだからと気を取り直し、改善の努力を平気で怠るところが、どうしようもない短所としてあります。そういうことは、人から言われても聞かないため、指摘されることもなくなっていくものです。無意識のうちに不都合な意見を黙殺し、正当化にひた走る、なんとも残念な姿です。自覚するまで直らない短所ほど、厄介なものはありません。いや、自覚はしているけれどと、言い続けてきたことが、都合の悪いことを受け入れようとしない弱さです。失敗を失敗と思わないのも、自分の非を認めない弱さだと言えます。


 抽象的に書きましたが、友人との会話を経て考えたことをまとめると、このような感じかと思います。具体的な例を挙げていけば、情けなさだったり惨めさだったりに泣きたくなります。無自覚であった自分への戒めとして、こういうことこそ日記に残さなければなりません。


 ゼロになって、今後どうしていくのかという具体的なことを考える前に、一度立ち止まって、目を背け続けてきた弱い部分を見つめ直し、とにかく悩もうと思います。「ネガティブなことに対する感受性が薄い」という友人の指摘は、おそらく以前の自分であれば、別に前向きに生きてればいいんじゃないかと思い直して深く考えもせずに放って置きかねないことです。
 前向きで楽観的なのは、ある意味幸せな生き方なのかもしれません。しかし、自分にとって都合の悪いことを棚に上げて誤魔化し、良いところだけを見続けて生きるのは、行き過ぎると無自覚な利己主義に陥らざるをえないと思います。それに、小説を書き続けようと志している人間として、負の側面を直視できず、表面的な感情しか言葉にできないようでは、他者の内面に響く文章など書けるはずもありません。むしろ、小説を書くうえでの致命的な欠陥ではないかと危機感を募らせるべきことのような気さえします。守る価値もないプライドだったり、周囲の視線を気にして見栄を張ったりする弱さは、いい加減かなぐり捨てなければなりません。それができなかったからこういう自分であり、弱さも含めて自分ではありますが、危うい楽観主義によって誤魔化し続けてきたみじめな内面を、本当の意味で反省する期間を、しばらくの間もうけようと思います。自己嫌悪も含め、今までの自分が通用しない以上、もう一度立ち上がってその先へ進むためには、目先に見えていた希望が失われた現状を、正面から受け止めるべきなのでしょう。
 その省察の結果が、何か一つの作品として言葉にできれば。
 これからどうするかは、その後で考えようかと思っています。




 私信:上野千鶴子さんの『サヨナラ、学校化社会』(ちくま文庫)、半分ほど読み終えました。今日の会話の内容を含め、良くも悪くも考えるきっかけになってます。良くも悪くも、というところが、今の自分にとって必要なことだと思って読み進めてます。貸してくれて感謝です。