撮ることは考えること2020

「書くことは生きること」を座右の銘にして久しいけれど、カメラで写真を撮るようになって、そこに「撮ることは考えること」を付け足したのは4年前。自分が感じている、写真を撮ることの魅力とは何なのだろう、と考えながら、それがようやくまとまった言葉になりそうな気がして、文章に起こしてみることにする。
 
 書こうと思ったきっかけは、「スマホでもいいのでは?」と写真を見せた人に言われ、「あ、今ならちゃんと言い返せる」と思ったところにある。
 近年、スマートフォンの画質向上は目覚ましく、安いデジタルカメラに匹敵どころか凌駕するところまで来てしまっているのは間違いない。だから「別に、スマホでいいのでは」とカメラを買う4年前くらいまでは自分でも思っていた。
 ミラーレス一眼を買うことになった経緯はここでは省くけれど、じゃあなぜわざわざデジタル一眼で撮るのか、何が違うのか、という話をしたい。
 
 カメラを使うことは、一言で表すと、見たままを見た以上に描写する行為である。
 見たままを、そのまま切り取るならスマホでいい。けれど、見たものが見た以上の写真になって表現できてしまうところに、スマホでは実現しえない世界がある。言い換えれば、写真としてそこに写し出される現実性よりも、目の前にあるはずのものが、カメラに写しとられることで、非日常性を帯び始めるところに魅力がある。
 
 シャッターを切り、一枚の平面に浮かび上がる奥行、色彩の階調は、後から見返すことで、肉眼の記憶すらより鮮やかに彩っていく。二次元の写真に、その瞬間の三次元が克明に封じ込められているという感動がそこにある。そしてそれが写真という媒体である以上、その一瞬が「確かにそこに存在した」という真実が切り取られていることは言うまでもない。非現実性を帯びながらも、撮影されたその場所その瞬間は、紛れもなく現実にあった(現に存在する)風景である。その揺ぎなさが、感動をさらに一段高めてくれているような気がする。
 
 個人的な理由をさらに付け足すならば、その感動が、マニュアルフォーカスのレンズで撮った写真だとより際立つという点もある。
 大抵のレンズはカメラと連動して、シャッターを半押しすればオートフォーカスが働いて、自動的にピントが合う。動いているものを撮るにはその機能の速度が非常に重要で、各社が技術を結集して日夜その改善に取り組んでいる(その進歩は本当にすごい)。
 
 しかしながら、静物写真を撮る場合、その速度は(残念ながら)関係ないのであって、オートフォーカスが利かなくてもそれほど困らない。
 撮影技術を磨くのに、自分でピント合わせを練習していたら、あるとき、マニュアルフォーカスのレンズで、ものすごく惹き付けられる作例の多いものに出会った。それが今持っているレンズである。ピントの合った部分から、なだらかに優しくボケていく背景と、その場の空気感まで切り取り、光を封じ込める写真に感動した。見慣れた景色がそれによってどのように姿を変えられるのか、期待に胸を膨らませながらあちこちを撮り歩き、その期待を上回る写真が撮れた喜びが、また撮りにいきたいという思いにつながっている。
 
 別の観点から言えば、被写体と向き合い、自分でピントを合わせるマニュアルフォーカスのレンズで写真を撮ることは、風景との対峙であり、光との対話である。
 その場に立ち、構図を考えてカメラの設定を決め、ピントを合わせてシャッターを切ることで映し出される写真は、結果として、風景を一つの作品に仕上げる試みであり、その過程で、肉眼では見えなかったものを見せてくれる。そしてそれは、見る前と見た後とで、日常の風景の見え方が変わるという点で、小説を書くことに通ずるものがあるように感じる。
 文章を書くことで日常を切り取りたいという思いを、図らずもカメラが、写真という形で叶えてくれるのである。撮ることそのものに関する自己満足という部分もあるけれど、撮る技術を磨くことで、写真による表現の幅だけでなく、言葉による表現の幅すらも、広がっていくような気がしている。
 
 新たな風景、新たな画角、新たなレンズをめぐる旅は、まだまだ終わりそうにない。