撮ることは

 書くことが生きることなら、撮ることはどうすることになるのだろうと考えていた。目に映るものを、手元にある愛機は鮮やかに写しとってくれる。収めたいと思う景色は、ただそれが自分の感性にとって美しいと思える程度の直感であることのほうが多いけれど、撮ることに惹かれ、撮ることについて考え、深い理解を求めてしまうのはどうしてなのだろう。


 キットレンズで撮影を続けて、広角が欲しくなった。広角で撮り始めてから、超広角に憧れた。超広角と広角を使い分けることを覚えて、目に映る景色すべてではなく、自分がその中で特に目に留まったものを写しとりたくなった。気のせいかもしれないけれど、カメラによって物語を喚起させうる場所まで、もう少しでたどり着けるような気がしている。
 何かを撮るとき、まだそれを撮ることだけで十分に悦びを感じられてしまうので、撮った写真が何かを呼び起こしうるかという視点には至っていない。読むひとの見る世界を文章が変えうるように、見るひとの眺める世界を写真が変えうる。写真はあくまで趣味だとは思っているけれど、撮ることで何かを思い、考えることを通して、そこから誰かに何かが伝えられるきっかけになったら、それはそれで素敵なことかもしれないと思う。
 ここまで書いて、カメラを手にしているとき、とりたてて意識していなかったわりに、撮ることは考えることなのではないかという気がしてきた。ファインダーを通して、目の前の風景を見る。光との対話をまとめるようにシャッターを切る。保存された写真は、その風景に対して何かを考えた跡なのかもしれない。


 当然ながら、書くことをおろそかにはしたくない。あくまで写しとりたいのは、自らの言葉によってのみたどり着ける場所の景色であり、その追究のために文章を書き続けていたいと思っている。何かを見て、考えたことは、写真ではなく言葉による作品として結実させたい。


 カメラはたぶん、考える道具の一つなのだと思う。やっぱりレンズがほしい、という結論になってしまうのだけれど、これはもう仕方がない。