一つの街で

  曇天の中で、昨日近くの公園に写真を撮りに行った。土曜日の午後、イベントの告知のポスターには、中止の貼り紙が上からいくつも貼ってあったけれど、敷地内は家族連れが多くて賑わっていた。

 家を出るときは晴れ間も見えたので、途中で太陽が差し込むことも期待したものの、分厚い雲の向こうにぼんやり光る太陽はずっと隠れたままだった。咲き始めていた桜の枝にカメラを向けながら、光量の足りなさを嘆くようにシャッターを切り、雲で白く滲んだ背景に目を凝らした。

 

 一つの街に住んで10年目を迎えることを思いながら、あと1年住んだら、人生で最も長い期間この街にいることになるのだなと気がついた。奈良で生まれて、父の仕事で沖縄で過ごすことになって(そのときの記憶はあまり残っていないけれど)、幼稚園に入る前から中2の終わりまで10年と少し大阪で過ごして、中3から大学卒業までの8年間は奈良にいて、就職して大阪で一人暮らしを始めて9年が経った。

 居心地がいいのでそのまま住み続けているが、最初の10年、次の8年、そしてこの9年と、色合いも密度も違いすぎて、単純な時間の長さはもちろんのこと、その長さの感じ方についても、一概に比べることができないほどの出来事に満ちていたと思う。

 

 公園の近くの地下鉄の駅は、自宅の最寄駅ではないのだけれど、そこからでも普段買い物をしている場所へはアクセスできて問題はない。張り巡らされた交通網の恩恵を正しく得る方法は、この9年で身体が覚えてしまったらしい。

 

 時間の流れに手を伸ばし、耳を澄ませ、身体を預けるようにしても、それが一体何をもたらし、何を持ち去っていくのかはわからない。息を吸い込み、吐き出すようにして、地下鉄の階段を昇る。改札の遠く向こうに伸びる道路の続く先の風景を、頭に思い描ける自分がそこにいて、曇り空の少し先には、暖かい季節が待っている。美しい志も、醜い欲望も抱えながら、カメラのはいった鞄を携えて、一つ深呼吸する。変わらない街並みの中を、季節が移ろっていく。