西日本放浪記Ⅱ

 11/6(金)
 10時にチェックアウトして、阿蘇に向かう。「阿蘇阿蘇びに行く」などというポスターを見ながら、「ああそう」と思うなどした。
 率直に感想を言えば、遠かった、という一言に尽きる。規制がかかっており、火口の見学はできなかったとはいえ、阿蘇駅まで電車で約1時間、スイッチバックで山道を登り、そこからバスで約30分かけて、火山博物館のある、現在の終着点、草千里まで走る。バスの待ち時間を含めると約2時間の道のりだったが、確かにそのぶんだけ、目の前に広がる景色は美しく、来てよかったと思えた。
 地理で誰もが習うカルデラ。稜線のそろった山の壁に囲われるかたちで、まさに山のてっぺんをくり抜いたところに町並みが見える。広がる田園と、点在する家並み、そして遠くには、活動する火山の白い噴煙が上がり、流れる雲を追いかけるように空へのぼっていく。
 秋芳洞の鍾乳洞と同じく、長い長い時間をかけて自然が創り上げた光景に、しばらくの間見とれていた。振り返れば黒い烏帽子岳が牧草地の向こうにそびえ、なだらかな傾斜が広がっている。立入禁止の手前まで歩いていく人々の列が小さく見え、人間との対比で、自然と「雄大」という言葉が頭に浮かんだ。正しくは、これが、「雄大な」景色なのだという実感がこみ上げたのだと思う。言葉に実感が追い付いた瞬間を、体感したのかもしれない。
 読書から得た語彙として、いくつもの言葉があるけれど、それが上滑りすることなく、確かな温度をもって相手に伝わるには、そこに書き手の実感が不可欠だと思う。実感の伴わない言葉は、いくら綺麗に並べてもそれは綺麗なだけで、薄っぺらさは拭えない。
 美しい文章を書きたいと思う、その美しさとは、そういった、経験や実感に裏打ちされた言葉選びの果てに紡がれた文章なのだと、個人的には思っている。
 読書だけが、言葉を磨く行為ではない。そんなふうに思った。


 その後、阿蘇山を後にして、熊本駅まで戻ると16時を過ぎており、そこから市電に乗り換えて熊本城を攻める気にはとてもなれなかったので、おとなしく帰路についた。大阪へ着いたその足で、残りの体力を振り絞って奈良の実家に帰り、一泊して本日、大阪の自宅に戻ってきた次第である。
 移動に次ぐ移動は楽しいけれど疲れる。だが、旅先でゆっくりする、ということは自分にとっては難しいことのように思える。せっかく来たのだからあちこちを回らないとという意識が強迫観念のように付きまとい、行動を促してくるのである。
 観光を犠牲にしなければ、旅先で一息つくのは難しい。
 本当に心身を癒すためには、温泉地に連泊というのが一番なのだろうなと思った。


 改めて、訪れた場所をまとめ、西日本放浪記を終えたいと思う。
 大阪→岩国(錦川清流線往復・錦帯橋)→宮島(厳島神社)→山口(秋芳洞秋吉台)→熊本(阿蘇山)→奈良(実家)→大阪