真夜中の残光

 昨日で辞めたら三日坊主になるなと思い、何かを綴る試み。打ち込まれた杭にロープを渡して、未来の誰かがたどれるように。たどったところでどうなるのか、何になるのかという問いに価値はなく、時間が経ったとき、そのときの自分が確かにここで何かを考えて残した事実が、思いもよらない意味を語り出す可能性に、少しだけ期待してみる。

 失われたものが光を放ち始めることというのがあって、たとえば極端な話、これを書いた自分の死後、誰かがこれを読むことによって感じる、書き手がもうこの世にいないという感覚は、生きている誰かの発した言葉より、ずっしりと重くなるような気がしている。自分が好んでよく使う比喩に、燃え尽きた星の光のように、というのがあるのだけれど、もうこの世界にないものの残光を知覚できるという神秘に、何かを託してみたい気持ちになる。そのもの自体が存在しなくなっても、何かが残り続けているというのはきっと、星だけに限らないと思う。

 と、向き合えばそういうことを思ったりする。書きながら思いついたことを綴っただけで、書き始める前に考えていたわけではない。午前2時から3時くらいというのは、思いもよらない何かを思いついて、妙に筆が進む。昔からそうだ。書き手が自分であるはずなのに、大げさに言えば自分ではない誰かの意志によって文章を書き進めている感覚になる。それがどういうわけか心地よい。だから今日も、そういう意味で、書くことは生きることなのだろう。10年経っても、そのスタンスは変わらない。