言葉が織り成す仕合せ

 突然ですが、パソコンを修理に出さねばならなくなったので、明日以降一週間弱は日記を書けそうにありません。
 と、ここに書けるぐらいだから一見問題はなさそうですが、危険な症状が多々出ているので、サポートセンターに電話をかけてみました。それ以前に友人にも相談してみたのですが、初期化するしかないかなーとの判断で、電話でもその旨を伝えると、専門の方のお話によれば、初期化するより修理に出すべきトラブルだとのことで、無料で一旦引き取ってもらうことになりました。
 就職活動も別の意味でひと段落ついてしまっているし、今ならそれほど困らないかなと。でもそういうときにかぎって小説のアイデアが天啓のように降りてきたりするもので、ますますメモ帳が手放せません。
 それにやっぱり考えたことはこうして日記にまとめたいですし、切羽詰れば携帯電話からの更新ももしかしたらあるかもです。


 ところで、昨日眠気のせいで書き忘れたことがあるので、今さらですが唐突に付け足そうと思います。


 堀江敏幸氏の『アイロンと朝の詩人 回送電車Ⅲ』のなかで、非常に個人的な理由から、読んでうれしさに震えた箇所がありました。今思えばなぜこれを書き忘れていたのかとにわかには信じがたいのですが、よほどの睡眠不足だったのだろうととりあえず結論付けようと思います。
 ということで本題に入ります。
「動かない言葉」と題された一篇。出だしを引用します。


幸田文の『包む』には、仕込み役は父親だけれど、ながい時間をかけて自分の力で磨いてきたさまざまな生活の知恵と技術がつまっている。」


 おおお!? と、そのときのリアクションを言葉にすればこうなります。
 この日記を欠かさず読んでいる、物好きで根気のある心優しきひとがどれだけいらっしゃるのかわかりませんが、5月の終わりごろに、『包む』の感想を書きました。これまでわずかばかり読んできた幸田文の随筆のなかでも特に気に入った作品集で、それについて思うところを、これまた敬愛する堀江さんが書いているという素敵な偶然にめぐりあえたわけです。
 以前、堀江さんの『バン・マリーへの手紙』を立ち読みした際に、幸田文の『崩れ』について言及されている箇所を見つけて驚いたのですが、まさか『包む』についても書かれているとは思いもしませんでした。


 幸田文は日本を代表する随筆家ですし、書くものの系統としては堀江さんの散文にも似ているところが少なからずあるので、必然なのかなとも思います。けれど、ひとりの作家から出発して、関連する作家のものを読み進めると、こういった素敵なつながりには、往々にして出合います。単行本をためらいなく買うぐらい好きな作家の小説が文庫化されたとき、解説を書いているのが著者である作家と同じくらい好きな作家だったり。まったく別のきっかけで読み始めた2人の作家が文芸誌上で対談していたり。


 そんな書き手同士のつながりを垣間見ることのできる最たるものとして、今新たに少しずつ読み始めているのが、『文藝別冊[追悼特集] 須賀敦子』(河出書房新社)です。
 もともと須賀敦子の著作には堀江敏幸氏の『書かれる手』(平凡社ライブラリー)をきっかけにして辿り着いたのですが、須賀敦子がいかに愛されている書き手であるかを、改めて確認できる一冊だと思います。そこでまた、新たなつながりを見つけ、無限にある書き手のルーツを辿り始めることになるかもしれません。その過程のなかで吸収した言葉を、自分のものとして発信し続けることができたら、いつか自分の書いたものを読んでくれた見知らぬ人に、素敵な偶然を届けることもできるのだろうな、と夢のようなことを考えています。