【掌編】夕凪

 水平線上をゆっくりとなぞるように進むフェリーを見ていた。沈んでいく夕陽に照らされ、穏やかに揺れる海が眩しい。港からこうして海を見るのも今日で最後なのだと思うと、日暮れがたまらなく悲しくなって、どうにかして夜を海の向こうに遠ざけたくなる。
 荷造りも終わって、家具も食器も衣類も何もかも、すでにこの街には残っていない。新しく住む街に海はなく、四方を山に囲まれている。坂道の多いその街を、決して嫌いではないけれど、潮風に乗って異国の空気が運ばれてくる波止場はずっと、私の生きてきた二十二年間に寄り添っている。思い詰めて見下ろした波打ち際、つらいことを忘れさせてくれる水面、潮の香りに涙が混じり合って、いっそ身体ごと、波にさらわれてしまいたいと思ったこともあった。
 海の向こうを眺めながら、遠くへの憧れも少なからず抱いていたはずなのに、この街を離れる今になって、手に入らない永遠を欲してしまう。寄せては返す波間から、浮かび上がるのは過ぎ去った記憶で、忘れていたはずの思い出が、去っていく私の手を引いてくる。
 大学進学を機に、私より先に遠くへ行ってしまった彼のことを今さらながら思い出して、笑いが込み上げてきたけれど、うまく笑えなかった。代わりに喉の奥がつんとして、どうして、と思う。
 ――どうして私、泣いてるんだろう。
 別離の悲しみも、失ってしまうことのさみしさも、四年前に流した涙に混じって、波が遠くへ運んでいったはずなのに、とめどなく溢れる涙を、私はこらえることができなかった。
 この街に二度と戻れないわけではない。この場所に訪れる機会が失われたわけでもない。そんなことはわかっているのだけれど、今この瞬間、この街にまだ住んでいる私として、過去の記憶をひっくるめてこうして思い返す瞬間が、後にも先にも、きっと一度きりなのだと思うと、そのかけがえのなさがどうしようもなく悲しくて、手の中にとどめておきたいのに、砂が落ちていくようにこぼれていく。これまでとこれからの境目、今につながっている時間が過去になって、新しい時間が始まっていく。期待がないわけではない。けれど、目の前にある海と同じ海を見ることは、この先きっと、もうずっとないのだと、確信のようなものが私の中に生まれていた。
 薄暮の空が涙でにじんでいく。夕刻と夜の狭間で、波は穏やかだった。聴き慣れた波音を、いつまでも聴いていたいと願いながら、せめてもう少しだけと、誰にともなく私は泣いた。
 どれだけの間、私はそうしていたのだろう。水平線の向こうに、漁船の影が見える。緩やかに、今日が終わっていく。海鳥の鳴き声が遠くから聴こえた。白い羽を翻し、濃紺の空を高く高く飛んでいく。そろそろ帰ろう、そう思ってから、そこに帰ろうと思うことも、これで最後なのだと思った。
 振り向いて仰ぎ見た夜空に、金星が灯っていた。