気が付けば雲の上

 3月から、また大きく環境が変わる。入社してから、2年同じ場所で働いて異動し、今年1年新天地で働いたら、4年目を迎えるにあたってまたしても、部署が変わることとなった。


 よくわからないうちに過ぎ去った1年目、自分の特徴を発揮できる部分がわかりかけながらも苦労が続いた2年目、そして、3足のわらじを履いてそれぞれの場所で最善を追求した3年目。自分の進みたい道筋がぼんやりと見え始め、いずれあの場所に行けたらと思い描いていたら、どういうわけか4年目でそこに到達してしまい、驚いている。背負うものの重さを今年1年で充分に理解できたゆえに、自分がそこにいていいのかと余計に思う。積むべき経験はもっともっと必要だと考えていたのに、それなら望んでいる場所で取り組みながら経験を積めばいいのではと言われたようなもので、身の引き締まる思いが日に日に高まる。


 あまりほめてもらうこともないので、自分のスキルが認められてその場所に辿り着けたとは思わない。ただ、どういうわけか、自分では一番そこが生きるような気がしており、適性を見抜かれたうえでの配置なのかもしれない、とも一方では思っている。


 履いていた3足のわらじから、最も自分に合うものだけを履くように言われた、そんな感じである。わらじは新しい革靴になり、進むべき道も示された。踏み出す前からその険しさは見えている。自分でいいのかという思いはあれど、務まる、務まらないの問題ではない。後戻りが不可能なのだから、進むしかないわけで、だからこそ、雲を突き破った先にそびえていた山の頂上を仰ぎ見ながら、どうやって登っていくかを考え続けるほかない。
 踏み出していく一歩ずつに、最善を要求される。甘えだとか妥協だとか、そういう言葉は存在すらしない場所で――当然それは今年だって抱きようがなかったけれど――闘いが始まるのだと思う。


「来年の今頃辿り着いた場所に、どれほど美しい眺望が待っているのだろう。考えただけで、楽しみで仕方がない」


 ちょうど1年前、現在いる場所への異動が決まったときの記事に、こう書いた。そして、次のようにも書いた。


「山頂は、雲に隠れて見えない。けれど目的地は、あの分厚い雲の向こう側。重い荷物を抱え、踏み出す一歩に、魂を込めよう。出発まで、あと少し」


 振り返って思うのは、すでに書いたように、雲を突き破った先の頂上すら、仰ぎ見なければならないほど遠いということである。美しい眺望を楽しむどころではなく、まだまだ遥か遠くを目指して歩いて行かなければならない。


 ただ、少しほっとした部分もあった。1年前の記事を読み直したとき、たった1年なのに、このときの自分はまだまだだったなという思いがこみ上げた。身の丈に合わない服を着たような心地で、それでもなんとか着こなそうとする力みのようなものがあって、それを未熟だったと思い返せるくらいには、成長しているのかもしれない。


 だから、来年の自分がこの記事を読み返したとき、もう一度、このときは未熟だったと思い返せるように誓いを立てたいと思う。定められた道を進むことより、新たな道を切り拓くことを求められる場所で、4年目が始まる。