雑感と向き合うこと

 いつからか、今何を思い、感じ、考えているのかを考えなくなってきている気がする。抱えている思いはただ苦しみや情けなさやふがいなさであって、似たような色が混じり合っている。その中のどれか一色を取って何かを描こうにも、同じような絵しか描けないように思えて結局描こうとすることすらしなくなっている。
 気持ちの整理という言葉もあるけれど、しんどいという気持ちのとなりにつらいという気持ちがあり、つらいという気持ちの前後に悲しみや苦しみがあるから、何をどう並べても同じに見える。
 負の感情の濃淡で描いた印象派みたいな絵画を目指してもいいのかもしれないが、手なずけられるほど、まだ自分の気持ちと仲良くできていない。


 本当は小説が書きたくて、無理にでもと原稿に向き合ってみるものの、何一つ見えてこない。ひょっとして自分は文章を書けなくなっているのだろうかと不安になって、ブログを開いてみたら、大した問題もなくここまですらすら書けてしまっている。
 自分の内側にあるものを、想像力や表現力で加工して文章を組み上げ、それまでにこの世に存在しなかった世界を構築しようと思えば、まずはその、自分の内側にある何かをきちんと見つめなくてはならない。


 考えることをやめたら人間として終わってしまうとも思う。本音を言えば、楽しいことだけ考えていたいのだけれど、楽しいことだけ考えている場合ではないし、苦しさを嘆き続ける時間もない。現実離れした妄想を加速させたいのに、現実が大きすぎて、空想が入り込む余地が残っていない。適当なことを考えることすらできない。まじめすぎる気もするけれど、どう頑張ってもこれが自分で、それは直らない。


 ただ、何であろうと「書く」という行為で救われるのは確かである。自分の中にないものを、想像だけで生み出せるほどの力が足りないため、しばらくは、自分の内側を直視して、負の感情の濃淡を見極められるようにしようと思う。がんじがらめになっている現実の鎖に楔を打ち込めるとしたら、それしか方法はない。前向きや後ろ向きといった二項対立を止揚するためには、自分の思っていることや、抱えている感情を、それがいいのか悪いのかという問題は無視して、いったい何なのかを考えてみることが必要な気がする。


 正直、今ここまで書いてみて、自分はそんなことを考えていたのか、と思った。書かれたものは、書かれた途端にそれを書いている自分から独立して歩き出してしまうらしい。