揺らぎのなかで

 教育に携わりながら、確かな一歩を踏みしめるように三年目を迎え、曲がりなりにもここまできたことに対する自信を支えにして、整備されていなかった道を切り拓くような仕事を任され、今日も歩み続けている。
 どこを目指して、何に出会うために自分が歩いているのかを考えるより、次の一歩を踏み出すために目の前の道を切り拓くことを考えなければ倒れてしまいかねないような状況に今、あるのだと思う。それはすごく刺激に満ち、この場所にいることに、楽しさとやりがいを感じながら日々を送ってもいる。けれど、遠くまで来たために、自分がかつていた場所が、振り返っても見えなくなってしまったことが、不安を誘っているのかもしれない。


 言葉に触れ、文章を読み解くことを教える。
 その教え方に正解はなく、明確な方法論も、実際あるように見えながらも絶対ではないことがわかってきた。だからこそ、そこに、自分にしか作りえない道を通したい思いがある。今年与えられたのは、そう思うならどうぞそんな道を作ってくださいという役割だった。


 そして今、寒い冬を目前に控え、その先の方向性について、考えていかなければならない段階にある。未開拓だったその場所を、切り拓き、舗装し、整備していくなかで、多くの要望を受け、さまざまな指示をいただく。そこで錯綜する考え方や方向性の違いを、どう受け止めるか。正しいものなどないなかで、それでも進まなければならない。


 成長が、きちんと数字に表れるシステムが、求められている。けれど無論、数字で測れるものがすべてではない。ただ、目に見える結果がなければ、発言力も影響力も持ちえない世界がそこにある。自分で学ぶ力をつけさせることが目的ではなく、システムに則って学べば自ずと結果が数値に表れる、そんな仕組みが必要とされている。
 身も蓋もない言い方をするとこうなるが、論理的で、隙のない効率的な方法は、努力が数字に表れるという点では意欲もかき立てるものであることは間違いない。


 何をもって教育と言えるのか。それはまだ、はっきりとはわからない。
 目指す方向にあるものの善悪を決める基準は、どこにあるのだろうか。それは、彼らがどういう人間になるか、そこで初めてわかるのだろう。そんな曖昧さを孕んだまま、それでも進まなければならない。何を求めて彼らがここに来るのかを考えれば、進むべき道は自ずと見えてくる。
 望みどおりに創り上げたもので、彼らの希望する道を切り拓くことにつながるならそれは悦び以外の何ものでもないけれど、もっともっと広く、大きな視点で眺めたとき、それで本当にいいのだろうか、と教育の現状に懐疑的になる気持ちが、ないわけではない。


 楽しいことに変わりはないけれど、心に立つ波紋は、日々、大きくなっている。自分自身、これからどうなっていくのだろうか。どの規模で、何をどのように考えて日々を歩んでいけばいいのか、なかなか見えてこない。
 これを読んだ人に、そのよくわからなさだけでも伝わればいいと思いながら。