湖に降る敵討ちの雨

 過去に読んだ小説で出会った彼のおかげで、雨が降っていると、ときどき死について思いをめぐらせるようになった。人間に興味はないが、担当する人間にはきちんと調査を行い、判断を下す。淡々と「仕事だからだ」と言う彼が、不思議なほど恰好よく見えてくる。


 伊坂幸太郎 『死神の浮力』(文芸春秋


 『死神の精度』から8年も経っていることにまず驚いた。読んだ当時は高校2年で、ちょうど伊坂作品を読み漁り始めた時期だったと記憶している。まだ文庫化されていたのは『オーデュボンの祈り』と『ラッシュライフ』だけだったころのことだった。


 短篇集だった前作とは異なり、今回は死神の千葉を書き下ろしの長篇で読める。それが何よりうれしかった。
 今回も前作同様に、死神である千葉が、死を目前に控えた人間に近づき、一週間調査を行ったうえで、本当に死を与えても「可」なのか、それとも「見送り」なのかを判断する。この作品で千葉が担当するのは、娘を殺害され、復讐を誓う作家の山野辺遼という男性である。


 山野辺と、その妻の美樹とともに、千葉は彼らの復讐、というか敵討ちに巻き込まれる。娘を殺害した本城崇は、伊坂作品らしく読者に憎しみを感じさせる人間として描かれている。


 結末がいつも痛快で爽やかに感じられるのは、伊坂幸太郎さんが描く悪人の描写が憎らしくおぞましいからなのは間違いない。人間の心理に潜むおそろしい部分と向き合いながら、物語を作っている姿勢がうかがえる。
 エンターテインメントとして、読者を楽しませる工夫を凝らしながら、一貫して感じられるのは、そんな人間という生きものの本質を描こうとする作風である。『夜の国のクーパー』でカントの思想が色濃く出ていたが、今回はカントだけでなく、パスカルの引用が数多い。それも、パスカルの『パンセ』を手に取ろうかと思うくらい多い。


 この『死神の浮力』では、死神である千葉という人間ではない存在の視点を設定することで、人間の社会を外部から眺めた描写が効いている。とはいえ、死神であるはずの千葉の、妙な人間臭さが、相変わらず魅力的である。
 何よりも音楽(ミュージック)を愛し、仕事を粛々とこなす真面目で少しずれた彼の恰好よさに取りつかれると、まるで死神に取りつかれたように思えて自分の死を案じてしまうが、多分彼は無感情にこう言うだろう。「人は必ず死ぬ」と。
 そんなとてつもなく当たり前の言葉さえも、少し特別な意味を持って響くのが、この作品の素敵なところだと思う。