カフェ

 6月に入りましたね。だから、というわけではないのですが、久しくブログらしいことを何も書けていなかったこともあって、ごく普通の日常を書いてみようかと、ふと思いました。
 常体で書くとどうも堅苦しくなって、仕事のことを書いてしまうことが多いので、久々にこうして敬体で書いています。


 さらに言うと、Surfaceを購入したこともあって、カフェからブログを更新したいなと思っていたので、ようやくそれを今日実行に移しているわけです。家ではゆったりしすぎるので、ある程度は公共の場に出て有意義に休みを過ごさねばという義務感にも駆られつつ、いつも適当に書店をめぐって、適当なカフェに入ることにしています。
 コーヒーを飲んで一息つきながら、ものを考えたり、書いたりする時間のゆるやかな幸福感は、相変わらず格別ですね。


 仕事は死ぬほど忙しい日々も続いていますが、きちんとこうして休みも取れているので、体調を崩すことなくがんばれています。


 とはいえ、休みであっても仕事を持ち帰ってくることも多くて、今日は午前中から昼過ぎにかけて急ぎのものを片付けましたが、先週と先々週はカフェで仕事をしていました。
 一応まだやるべきことは残っているのですが、そういったもろもろをわきへ置きたいがために、これを書いています。


 なかなか本が読めない現状もありながら、こうして外で書けるようになったことがうれしくて、何か書きたくてしょうがない状態です。改めて今、自分のかつて書いた小説を読み返してみると、書き上げた当初は何とも思わなかった粗に気付くことが多くて頭を抱えるというか、いろいろとつらいですね。
 でも、そう思える自分がいるということは、今何か小説を書くことができれば、これまでとは別の地平に一歩を刻めるような気がしてなりません。何とかこういう時間をたくさん作って、何かを残さなければと思っています。


 ただ、残さなければ、というこの意識が文章を書く妨げになることが多いのではなかろうかという思いもあって。ちゃんとしたものを、本気で書かなければと力んでしまうと、書いた言葉すべてに完璧を求めようとして、そこまでこだわる必要のない細部に意識が向きすぎて、大きな物語の流れに入り込めないということがよくあります。
 細部をないがしろにはできないのですが、それでも、書かれようとしている大きな流れに自分自身の意識がある程度没入している状態でなければ、書き進めるのは困難なのだと思います。


 乗ってくる、という言い方をしたりしますが、その乗ってくる状態というのが、うまく自分の書く文章の中に没入できている状態なのだろうと思うのです。現実から少し離れて、日常のあれこれをわきへ追いやる、気持ちのコントロールができないとなとつくづく感じるわけです。


 と、書けない言い訳をしていても仕方がないので、少し別の話に。
 大学を卒業してからもう2年が経っているわけですが、仕事外において、こうして文章を書こうとするうえで、文章を書かせるうえでの問題意識が弱まっていないかと、書店で本棚を眺めながらふと感じました。


 哲学や日本文学の講義を受けることがなくなって、日々教育について頭を悩ませながら、一生懸命に生きてはいるのですが、大学時代に日常的に考えていた大きな問いは、どこかへ行っているように思います。
 失われることはないにしても、あのときの思いを枯れさせてはいけない。文学、芸術、哲学――それ自体を考えることそのものがよろこびであるし、根源的な問いに始まる文章でなければ、日常の上澄みを掬っただけの、薄っぺらいものに終わってしまいかねません。


 何かを研究するわけにはいかないですが、文章を書かせ、作品を創り上げる原動力になりうる問いを、持ち続けなければと思うしだいです。


 いったい自分は何に向かって書いているのか。文章を書くことは、つねに、どうして書くのかを問い続けることでもあります。それが生きることそのものだから、という安易な理由以外に、その問いに対する答えを探す姿勢を、持ち続けていたいなと思っています。


 カフェの閉店時間が近づいてきました。そろそろ帰ろうと思います。