過程

 気持ちが緩んだとき、同時に緩んで出てしまう言葉が許されないものになりうる怖さ。ため息さえ見せるなと言われているようで、言葉を書き連ねることの一切を禁じられている心地すら覚えて、怯えてしまう。
 深い意味がなかったわけでもないけれど、伝わるだろうと思って言葉を吟味しない傲慢さはやはり慢心というもので、捨て去るべきだと感じる。無意識、無自覚、いわば素の部分こそ、立ち止まって見つめ続ける姿勢は必要なのだろう。よりよい自分で、ひととよりよい関係を築き上げ、保つための、失ってはいけない厳しさというものがある。
 肯定してもらうことは、わがままさを受け入れてもらえること、許してもらえることとイコールではない。寄りかかることは、重さを預けることであり、負担を強いることである。
 自分の都合を受け入れてもらえることを理由に肯定する関係性は、許可されたことに甘んじて我慢を強いることになり、破綻してしまいかねないなんて、言うまでもないことなのだ。いい加減、根幹から理解しようと考え抜いて、甘えを抹消しなければいけない。
 欲しかったのが寄りかかれる場所なのだとしたら、それは紛れもなく他者への甘えであり、自立した生き方の放棄ではないか。恵まれ、幸せに生きてきた自分が目を向けずに済み、見えても目を背け続けてきた弱さに、真正面から向き合う覚悟を持って大人にならなければならない。
 恐れ、怯えて沈黙を決め込み、みずから書き言葉を殺さねばならないほどの、その程度の書き言葉しかしたためられない人間だと泣いて、筆を折って捨ててしまうなんて、それこそ短い人生をかけて血肉にしてきた言葉たちの紡ぎ手への冒涜ではないか。
 これだけでも伝わる、そんな居心地のよさに甘えていたいなどと、自分の都合だけでものを言い続けられると思うな。
 逃げてはいけない。次から気をつけるとか、これでもいいとか、自信を失わずにとか、落ち込む気持ちから逃げるための転換は、根本的な改善を拒むまやかしの前向きさであり、悪しき開き直り以外の何ものでもないことを知るべき。
 本当は、前も後ろもない。今ここに生きる自分がいて、大した意味もなくただあるにすぎない。その事実に耐えられないから意味を付与したくなる。自信を持とうなどと呪文のように唱えて前を向いた気になる。明るい気持ちなのだと書いて、問題の本質から目をそらす。そんなふうに姑息なことをしながら、すがり続けた意味などをすべてはぎ取って、考える時間を持つ必要がある。
 書くことは生きることだと標榜する以上、言葉を書き連ねることから逃げたらそこには死しかない。深く深く考えること。書いた言葉に責任を持てないような生き方を、何かのはずみであってもしたくない。それは断言できる。弁明や言い訳をしなければならないような、脆弱な書き言葉を二度と書かないために、どこまでのことができるのかを考え続けて生きる。それぐらいの覚悟を持って生きるのだと、そんな姿勢を示さなければ、一生このまま情けない甘えを抱えたまま生きなければならないような気がして、それこそ絶望する。真摯に、誠実に、思うままでなく、考え抜いた末の言葉を。
 言葉について考えることをやめていたことを素直に認め、もう一度しっかり考えるきっかけにしなければ、きっと同じことをくり返す。機嫌や感情のような一時的なものではなく、恒常的なあり方として、現状を見つめる目を持つこと。わかってほしい、理解してもらいたい、という素直な願いが、時としていかに傲慢で忌むべきものか、立ち止まって考える機会を持たずして、どうやって相手を軸にものを考えられるというのか。
 甘えて生きてきたのだと素直に認めて書き連ねる恥ずかしさを隠し通そうとする弱さを、そのままの自分を晒して見くびられたくないゆえに持ち続けるプライドを、かなぐり捨てて生まれ変わる気持ちでいなければ、本当にずっとこのままだ。
 どうすればいいのか、どうあるのが正しいのか。正しさを求めることが現時点での正解なのか。結論を今ここで出しても意味はない。たった数時間考えて出した結論など、結局は考えることをやめる口実にすぎない。キーボードから手を離した後もなお、考え続けることをやめずに何かを読み続け、本気で向き合うべきときにいる。
 こんなことを考えなくても生きてはいけるのだと思い直すことは禁じたい。すでに選んでいる道を後戻りして、何が得られるというのか。
 大切にしたいもののためにできることを、考えて考えて考え抜く。
 長ったらしいと蔑まれようと、みじめだと罵られようと、批判する言葉はただまっとうな事実を告げている以上、正面から受け止めることを放棄しないという姿勢を表明しなければならない。
 考えた軌跡を責任を持った書き言葉で残すことが、ただ一つ、できることだと思う。