魂の肖像

 大学時代に意を決して読もうと試みたものの、通読どころか、第一章を読み終えることすらままならなかった一冊がある。敬愛する作家が尊ぶ一冊であるというのに、書物はお前にはまだ早いといわんばかりに拒んでいるようで、ページをめくる手を重くさせ、結局手にして間もない真新しい状態で、本棚の一角で眠ることになった。
 娯楽として何かの片手間に読むことは、読書の基本的な姿勢として何も間違っていないけれど、この本に至っては、じっくりと腰を据えて真正面から向き合いたい、そんな思いが募って、再びそれを手に取ることにした。


 マルグリット・ユルスナール[著] 多田智満子[訳]
 『ハドリアヌス帝の回想』(白水社


 須賀敦子の歩いた道を辿るように、言葉が刻んだ足跡を辿りたくて、『ユルスナールの靴』(河出文庫)を読んだのだからと買ったのに、当時は歯が立たなかった。
 けれど今、自分の中で一体何がどう変わったのか、あまりにすんなりと読み進められて驚いた。それどころか、そこにちりばめられた絢爛な言葉の数々に心をわしづかみされ、強くその世界に惹かれた。
 ようやく読むことを許され、書物はその扉を開いてくれたのだと、そんなふうに感じられた瞬間だった。読了にかかった時間は、たった二日である。


 題名の言葉通り、これはローマの五賢帝に数えられるハドリアヌス帝が、晩年になって自分の死期が近いことを自覚し、皇位継承者に書簡の形で自らの生涯を綴った文章である。
 一言で言えばそんなふうに説明はできるのだが、だからといってこの本が、単なる歴史小説の枠に納まるとは到底思えない。
 というのも、そこに書かれているのは史実ではなく、史実をもとに作者のユルスナールが再構築した、完璧なまでの《声の肖像》だからである。世界史の教科書や年表をひもときながら読む必要はまったくなく、命ある、たった一人の偉大な皇帝の語り口に耳を傾けさえすれば、それで事足りる。それはまるで、ハドリアヌス自身がユルスナールの言葉を借りて語っているかのようですらある。浮かび上がるのは、彼自身の魂のかたちである。
 堅牢で、絢爛で、傷一つない流麗な文体は、重たく大きい宝石をゆっくりと時間をかけて見つめ続けているような心地にさせる。
 回想であるはずなのに、読み進めれば読み手である自分自身が、ハドリアヌス帝の両眼から彼の生涯を追体験しているようにさえ思える。同時に、国の行く末を案じ、夜風に吹かれ遠くを見つめるその双眸が、言葉にできぬほどの憧れを伴って立ち現われてくる。


 ユルスナール自身が「作者による覚え書き」でフローベールの書簡集にある一節を引用しているのだが、読了後に読んだその一文に、大きくうなずかざるをえなかった。
キケロからマルクス・アウレリウスまでのあいだ、神々はもはやなく、キリストもいまだない、ひとり人間のみが在る比類なき時期があった。」
 彼女が執筆を試みたのはまさに、絶対的な神が不在だった歴史上の空隙において、人間が生きながらにして神と同等となったその期間のことである。


 とはいえ、丹念に描き出されるハドリアヌス帝の肖像は、全能で絶対的なものでは決してなく、むしろ人間的な側面が多いほどであり、だからこそいっそう、読み手を惹きつけるのかもしれない。
 ローマにいながらギリシアに傾倒し、芸術を愛で、美少年アンティノウスを愛した皇帝。肉体を離れた彼の魂が、言葉に寄り添っているようである。
 

 言葉が、そして文学が持ちうる力は、ユルスナールによってなされたように、歴史の文脈から一瞬を切り取り、どうしようもないほどいとおしく魅力的な人間の姿をありありと描き出し、読み手の魂すら揺さぶる。現実と虚構と、それすら超越するような視点に立つ悦楽に、言いようもないほどの至福を感じられた。


 生涯忘れることのできない一冊になったと断言できる。