響く救難信号

 寄り添う不安にまみれた下書きを消し去って、真っ白な紙の上に健やかな筆跡でこれからを綴ろう。そんなふうに思いながら、過ぎていった日々をしたためる。


 確かな文体とは一体どういうものなのだろう、と何気なく考える。本が読めない代わりに、心の隙間を埋める温もりが毎日にあって。書き言葉を紡がない間に、少しずつ自分の言葉のかたちも変わりつつあるような気がしている。
 声にこもった優しさや慈しみが、砂漠に降る雨のように染みわたって、突き刺さる日差しに耐えうる心をつくっている。


 優しさを知っている人は、痛みを知っている人だと思っている。
 痛みを知っているということは、長らくそれに耐えてきた証拠で、だからこそ他人へ差し伸べる手に迷いがない。けれど、本当に手を差し伸べられるべきは、そんなふうに痛みをひた隠しながら、目の前の誰かのために手を差し出してきたその人自身なのではないか。


 大丈夫、と微笑むその向こうに、かすかな叫び声が上がる。
 それが聞こえるという段階ですでに、救う義務と資格を有していると考えるのは思い上がりだろうか。握る手を探し求めていた掌が、声にこたえるように開く。


 できごとを並べ立てることが必ずしも日記ではない。
 日々放たれる声なき声を刻印することが、日記なのかもしれない。