燃え尽きた星の光を見つめるように

 どんな作家がそれを書いたのかを知っていようといまいと、書き出しから読み手の心を鷲掴みする小説というのが、世の中には溢れている。立ち読みで初めて読んで心が揺らぎ、そのときは買わずに帰っても、そこで生じた波紋はどんどん大きくなって、やがてはしっかりと、その本は未来の読者と自らを結び付けるのである。


 ポール・オースター[著] 柴田元幸[訳] 『最後の物たちの国で』(白水uブックス


 行方不明になった兄、ウィリアムを探してアンナがやってきたのは、人々が住む場所も食べ物も失い、迫り来る死から逃げ回りながら街をさまよい続けるだけの国。盗みも殺人も、そこでは罪ですらなく、悪夢のような極限状態が待ち受けている。人は次から次へと死んでいき、物も、言葉も失われていく。


 この物語は、そのような状況下で必死になってもがきながら生きたアンナが、その果てに書き綴った手紙というかたちで語られる。書き出しはこうだ。


 ――これらは最後の物たちです、と彼女は書いていた。一つまた一つとそれらは消えていき、二度と戻ってきません。私が見た物たち、いまはない物たちのことを、あなたに伝えることはできます。でももうその時間もなさそうです。何もかもがあまりに速く起こっていて、とてもついて行けないのです。


 つまりこれは、すでに起こった過去のこととして、読み手に届けられる物語である。現在アンナがどこで何をしているのか、生きているのか死んでいるのかを知るすべは、そこには見い出せない。
 何度も何度も命を危険に晒される、生き地獄のようななかを生き続けた彼女の声であるそれは、読んでいて、燃え尽きてしまった遠くの星から届けられる光を見つめ続けているような心持ちだった。


 絶望は幾度となく襲い掛かり、もう殺される、と思うような場面も少なからずある。けれど、それは一通の手紙であるという確固たる事実によって守られていると言える。それが書かれたものとして読み手に届けられている以上、それを書いている主体である生きたアンナの姿をつねに思い描きながら、物語を読み進めていくことができるのである。
 逆に言えば、それだけを頼りに、読み手は過去から現在へと彼女を追いかけて行くことになる。手紙という事実さえも小説の構造の一つであるはずなのに、凄絶な臨場感が言葉の端々から溢れ出す。
 死を目前にしながら感じられる人間の生の温もりと、救いのない世界において自分の存在を肯定してくれる人間がとなりにいることの心強さに胸を打たれながら、ページをめくる手は止まらなかった。


 淀みなくその物語の魅力がこちらに流れ込んでくるというのは、作者のみならず、訳者である柴田さんの力によるところも大きいのだと思う。


 一瞬にして、オースターの愛読者になった気がする。早くも『ムーン・パレス』(新潮文庫)が読みたい。