光陰

 忙しさというものが、心にも身体にも、慣れという形をとってしみ込んできたような気がしている。この疲労感ならまだ問題はない、これは少し危うい、など、自分の体調の機微を判断できるようになった。当然のことだと言えばそれまでだが、疲れ切るまで仕事をするうち、どこからが本当にまずいラインなのかを見極めることが、いかに大切かを思い知らされる。
 仕事としての体調管理というのはこういうものなのだと思う。


 休みが取れない時期だから仕方がないとはいえ、身体が重くなるような書き出しをしてしまったけれど、思えばもう、引越してから一年が経ち、働き始めてから一年が経とうとしている。
 あと四日すれば、二年目に入るのだ。
 誰かが褒めてくれるわけでもないので、よく続けてきた、とひとまず自分を称えたい。一年前から考えれば、よくがんばってると言ってあげたい。
 そんなふうに、誰かを褒める言葉がおのずと出せるようになったことが、一つ大きな変化だと言えるような、そんな気もする。


 一年を振り返ったとき、あまりにいろんなことがあって、思い出そうとすると、煮えたぎる記憶が洪水を起こすぐらいのことが起こりそうになるのだが、印象的な言葉として思い浮かぶのは、
「落ち着いたね」
 という一言。そこには、「話し方が変わった」というものも含まれる。複数の人から言われ、自分で意識はしていたものの、自分でも驚いた言葉だった。
 思ったことを、考えるというフィルターを通過させて、明白な文字として声に出す。できているつもりのことができていなかったことをまざまざと思い知らされ、まっさきに心がけたことだった。
 些細な意識から、大きな変化が巻き起こる。変わろうと思えば、変わらないと思い込んでいたことも変えられる。それを実証できたような気がした。


 見える景色が違う。そう思う。
 別の地平に立っているのがわかる。けれどまだ、相変わらずどこを目指そうとしているのか、はっきりとはわからない。


 それにしても、と思う。躊躇や熟考がこれほどまでに厳しい断罪を受けるのは、仕方ないとはいっても悲しい。迷ったら動く、という言葉がすでに、強迫観念になって襲ってくる。
 時間を効率的に使う、無駄を省く、という極限の合理化が、絶対的な正義として世界を貫いているように、ときどき思う。つねに時間との闘い、時間を有効に、がイデオロギー。どう考えたって当然のことなのだが、しばしばそれに首を絞められることも多い。


 一年経って思うのは、一年前よりも多くの課題点だった。一つ高次のものだとはいえ、直面する以上、立ち向かうほかない。道はそっちにしか伸びておらず、後戻りもできないのだから、自分を信用するだけである。


 少しは信用に足る人間になれただろうか、と心の片隅で自問しながら。