「事実」が語る衝撃

 衝撃的な作品との出会いが、読み手に文章を書かせる。単なる感想にとどまらず、一つの書評となるように、そして、記録に残して記憶を刻み込むために、一冊の本について記しておきたい。


 アゴタ・クリストフ[著] 堀茂樹[訳]『悪童日記』(ハヤカワepi文庫)


 ハンガリー生まれの彼女が、フランス語で書いた処女作である。読了まで、四時間ほどしかかかっていない。のめり込むように、一気に読んだ。読ませるだけの力がそこにはあった。


 戦争のさなか、「大きな町」から「小さな町」のおばあちゃんのもとへと疎開した双子の「ぼくら」が作品の語り手である。物語は、「ぼくら」が一切の感情を排除し、事実のみを忠実に書き残した「作文」という形式をとっている。
 激化する戦争により、荒んだ人間の心が、醜さや哀れみを訴えかけるような厳しい現実に、「ぼくら」は直面する。襲いかかる不条理と、大人たちのエゴイズム。
 戦争のむごたらしさを伝えようとするならば、語り手である彼らの心理的葛藤を克明に描き出すことは不可欠に思われる。しかし、この作品はそうではない。


悪童日記』という題名が語るように、「ぼくら」とは「悪童」である。現実に屈するのでもなければ、抗ってもがき苦しむわけでもない。おぞましい現実を、真正面から受け止めるために、強くなる訓練を積むのである。強大な力に屈しない、生き抜く力を手に入れるために、感情を排除し、確固たる「個」として自立する。
 食べ物が与えられなければ、食べなくても生きていけるように断食の練習をし、罵倒されれば、互いを罵り合って何も感じなくなるまで精神を強くし、暴行を受ければ、殴られたり蹴られたりしても屈しないように互いの身体を傷つけ合う。それだけではない。愛されることで動く心も、生き抜いていくためには邪魔でしかない。何を言われようと何も感じない心に、自分たちでしていく。
 いかなる意味においても他者に屈しない自己の根を、深く太く張っていく。
 そうして強くなっていく「ぼくら」が、戦争の終結まで生き抜く。


 生きるためには手段を選ばない。人も動物も平気で見殺しにする。そういう意味では「ぼくら」は紛れもなく「悪童」である。だがそれは、特定の人間ではない強大な「悪」に立ち向かうための一つの生き方なのだと言えるだろう。
 現実の生を味わうのでも、吐き捨てるのでもない。いわば、丸飲みするような感覚だろうか。大きく、硬くても、飲みこめるような喉に鍛え上げればいい。肯定とはまた別の、受け身と抵抗の狭間のような生き方がそこに提示される。


 それを果たしてどのように読むか。
 徹底して主観的な感情が省かれ、淡々と事実が書かれているため、読み手は感情移入する対象がない。初めのうちこそ「ぼくら」への哀れみが生まれるかもしれないが、この作品は「ぼくら」が強く生きていく過程である。
 読み手もまた、むごい、醜い、かわいそう、などという主観的な感情を排除して読むことになる。それどころか、醜い現実に屈せずに生き抜くその姿が、快いとさえ感じてしまう。


 ただ、行動の裏には必ず理由があるはずで、排除された感情の向こうには、生き抜こうという明確な意志が存在する。心理的な描写がないぶん、読み進めるうちに、それがかえって際立ってくる。語られずに、無言の意志をもって迫ってくるようだった。


 恐ろしい現実が、人間にとっての真実が、むさぼるように受容できてしまう。秀逸な結末に、ただ息を呑むしかなかった。
 そして、忘れてはいけないのは、「個」としての存在と書いてみたものの、その語り手が「ぼくら」という一人称複数である点だろう。作中の「ぼくら」はずっと「ぼくら」であり、おまけに両者の区別は一切されない。二人いるのに一人のようにさえ感じる。


 その形式が、結末での衝撃をよりいっそう大きなものにする。肉親に対する感情の排除と、生き抜くために「ぼくら」の選んだ道の果てがまざまざと突きつけられ、一貫した生き方の形と、現実との向き合い方に、ため息をつかざるをえないだろう。


 そこにあるのは共感や感動ではない。繰り返すがそれは、一つの衝撃である。
 ハイデガーの言葉を借りるならば、「それが創作されたものとして存在する衝撃」を実感させられる。存在そのものの真理が、芸術作品の形をなして現前する。小説という「虚構」の形式をとりながら、感情を削ぎ落とした「事実」の提示によって成り立つ作品に、言葉自体の本質すら垣間見える。


 小説というものの役割を今改めて問い直すならば、それはやはり、現実とどのように向き合い、生きていくか、ということに対して、一つの答えを提示する試みだと言える。明確な答えの形をなす必要はなくても、読者に考える手立てを与えるという意味で、小説が持つ意義は大きい。新たな切り口で問いが示されるだけでも、それは現実を生き抜いていくきっかけとなりうる。


 厳しく生き難い現実と、一人ひとりが真正面から向き合うために、今こそ読まれるべき一冊ではないだろうか。