流れる言葉の岸辺から

 見知らぬ人間によって書かれた言葉を「読む」という行為は、実は謎めいており、そこに付与された意味を正しくわれわれが読み取れているのかどうか、非常に危ういと言えるのではないだろうか。言葉から意味を汲み取ることの不思議さを、そのままこちらに投げかけてくるような文章がここにある。


 朝吹真理子[著] 『流跡』(新潮社)


 朝吹さんのデビュー作であり、昨日感想を挙げた『ナラ・レポート』の解説を書いた堀江敏幸氏の選考によって、ドゥマゴ文学賞を受賞した作品でもある。


 書かれた文字が連なり、意味を持ち、言葉を超えたものごとを想起させ、われわれをその世界へ連れ去るということの不思議さが、純粋な疑問符として冒頭から立ち現れる。
 明確な物語はそこになく、主体を表す一人称も存在せぬまま、それでもその言葉の羅列の中で、ひとりの人間が何やら動き始める。読み手はだから、上流から下流へととどまることなく流れる言葉に身を任せ、不確かな感覚を持ったまま、不可解である「読む」という行為を試みるほかない。
 脈絡というものが欠落しているわけではない。ひとつの文章が次の文章を呼び、その文章がまた次の文章を呼び起こす。そうして言葉は流れていく。書かれたはずの言葉だが、書いた作者の姿はどこにも見えない。現代の言葉ではあまり使われない語彙も織り交ぜられながら、ときに流麗に、ときに粘り気を含みながら、文章は続く。
 読んでいるうちに動いている人間が「妻」と「子供」を持つ男であることがわかるが、そこに何か特別な意味があるようにも見えない。


 100ページほどのこの作品がどういうものなのか、説明すればほぼ上記のようになる。それはこれまで読んだどんな作品にも遠い、不思議な感覚を読み手に与える。流れるという状態によってかたちを保たれた純粋な言葉の群れが、作品のすべてを組成している。
 流れ去ったのちに残るのは、言葉そのものの奇妙な余韻である。不穏ながら、それはなぜか心地よく感じられる。


 流れている川について説明するときは、やはり川そのものを眺める以外にない。この小説の感想を書くことは、川の水をひと掬いして、これが流れていた水だと説明するように不確かで、わかりにくいものになる。
 ぜひ、手にとってその流れに身を任せてほしい、そんな小説だった。