書き換えられない記憶

 久しぶり、と4人ぐらいに言った一日だった。みんなそれぞれ数ヶ月ぶりに会ったうえ、数ヶ月の間にあまりにいろいろあったせいで、以前会ったときの記憶が遥か遠かった。でも、いざ再会してみると記憶というのは図らずも甦るもので、振り返る対象になってしまった大学生活の過去を思い返しながら、同時に残りわずかとなった日々を思わざるをえなかった。きっと、卒業する日に会って最後という人よりも、今日のようになんとなく学内で会ったのが最後になる人のほうが多いのではないかと、ぼんやり考え込んでしまう。
 大学を出てから関係が続く人はもっとわずかで、すぐその先に、新しい人間関係が待っている。今日こうして考えたこともまた、新しく経験するものごとに埋もれてしまいそうで、そう思った途端に少し悲しい。忘れ去られてしまうということが、記憶からの消滅を意味するのではなく、心の奥底に大切に仕舞われることだと信じたい。
 何もかも、いとおしむべき日々だと思っている。


 と、秋が深まって、気付けば卒論や卒業後のことを考えざるをえない状況に、少し感傷的になってみたりする。今年の1月から今までがあまりに感覚的に長いものだから、数ヶ月ぶりに会った友人との記憶に深い懐かしさすら覚えてしまって驚いたというしだい。
 でも、自分も含めて何もかもが移ろいゆくことへの不思議さや、過ぎ去っていくできごとが思い出に変わってしまう瞬間のもの悲しさは、何より人間が生きてきたことを克明に表すことのように思えて、いちばん自分が言葉に表現したいと考えていることだったりする。
 誰の心にどんなかたちで届くかわからないけれど、まったく関係ない人間によって放たれた言葉が、思いもよらなかったその人の記憶を呼び覚ます言葉であってほしい。いい思い出も嫌な思い出も、決して他人に踏み荒らされることのない記憶の轍なのだ。
 そしてそれは、生き難い現実を生き抜く想像力の土壌でもありうると思っている。生き抜くことそのものに意味はなかったとしても、意味づけすることで救われることだって、ないわけではないのだから。