光ってみえたもの、それは

 最近読む本はどれも読む前に持っていたイメージを上回る名作ばかりのような気がします。充実した読書生活を送れているような。
 記事タイトルから、わかるひとはわかるかもしれませんが、この作品です。


 川上弘美[著] 『光ってみえるもの、あれは』(中公文庫)


 前半からもうこれは好きだと確信していたのですが、読み終わるとそれ以上に作品世界がいとおしくなり、余韻に浸っていたくて次の本が読み始められず、もう一回読み返そうかなとすら思ってしまっているぐらい素敵な本です。こういうものが読みたかったし、自分でも書きたいと思ってやみません。
 川上弘美が「まじめ」に書く「ふつう」の長編小説、という書き方をすれば、多分わかるひとはわかるのでは、と。


 主人公は高校生、16歳の江戸翠くん。「僕」という一人称で話は進みます。彼は母親と祖母との3人で暮らしていて、母親を「愛子さん」、祖母を「匡子さん」と呼んでいます。父親にあたる人物も近くにいることはいるのですが、一緒に住んでいるわけではないという、特殊な環境に育っています。けれど彼はそれでも、過ぎていく日常に対して特に大きな感慨もなく、「ふつう」の生活を送っているのだと考えている。
 彼女である平山水絵だったり友人の花田だったりとともに、高校生らしく、青春を謳歌していると言っていいと思います。
 しかし、そんなふうに「ふつう」に過ごしているからこそ、生きることに対する茫漠とした不安をことさらに感じてしまったり、世間あるいは社会や世界といった大きな物事の流れの中に立つ自分という存在のよるべなさに思いを馳せたりして、出会うもの、起こることそれぞれにみずみずしく反応を示します。
「早く大人になりたい」という思いを、大人になって失ってしまうものが理解できないままに抱えつつ、少しずつ変わっていく彼のひと夏の物語です。
 それなりに急展開もありますが、大半はなんてことのない高校生の日々で、ちょっとふつうじゃない人たちに囲まれながらも、その違和感を心地よく感じながら読み進められる一冊でした。


 それは誰しもが別のかたちで、別の言葉で考えたことのある、普遍性を持った違和感なのではないかと思います。そんなこと考えている暇があるなら別のことしたほうがいいとか、そんなに難しく考えなくたって生きてはいけるんだとか、気がつけばそうやって現実的な折り合いをつけてしまっているような、ささやかな問いであり、違和感が、ここには確かな言葉で書かれています。川上さんの言葉の選び方が本当に絶妙に的を射ているから、やわらかい表現なのに、心の芯を捉えて揺さぶられる、そんな心地でした。たくさんの言葉を自分の中に持っているからこそ、その中からシンプルで適切な言葉を選んで書くことができるのだと実感します。


 多様なものの見方や見え方、考え方が交錯するなかで、自分の見ているものや見えているものが正しいのかどうか、自信が持てなくなることというのが、生きていれば時折あると思います。それはいろいろな人間がいて、それぞれが別の価値観でものを見ているからこそ生じる揺らぎであり迷いであって、そんな状態に身を任せながらも、自分の見ているものをそのつど捉えようともがくことが、生きるということの一つの側面ではなかろうかと、考えてみたりしました。


 またまた人に薦めたくなった小説です。