止揚から転回へ

 自然体、というのはなかなかややこしい言葉である。
 面接において自然体で臨むことが最善なのはよく言われる通り当然だが、それはありのままの自分を出すこととイコールではない。社会に合わせた価値観のレベルで自然な自分を表現することが必要になってくる。働くうえで実現したいことが、例えば海外の市場拡大に携わって成長すること、みたいにはっきりと夢を語るように言えれば苦労はないと思うのだけれど、そうもいかないのである。ビジネスにおいて実現したい目標が、まだ定まっていない。多分これは面接において弱点になりうる点だと思う。


 自分の小説を読んでもらうことを通じて、物の見方、価値観に新しい変化をもたらし、生活に精神的な潤いを与えること。書いたものが評価され、一冊の本として形になって、誰かの家の本棚に大切に収められること。というのが、仕事外で実現したいことである。そして同時に人生における目標、もっと言えば生きる目的とほぼ同義である。
 ならば、仕事内で実現したいことは何かを考えたとき、良い作品が書けるように人間としての器を広げること、多くの人と関わり、話し合い、人間の許容量を増やすこと、となってしまう。これは、仕事内で実現したいことではなく、仕事外で実現したいことへのステップである。働くことというのがどうしても、小説に帰結する。
 したがって、今のまま自然体で自分を表現しようとすれば、素直に自信を持って語れば語るほど、働く目的が仕事外の小説に辿り着き、それをはっきり見抜かれる。そういう人間はきっと、いくら誠実で前向きでも企業に必要とはされないと思う。
 第一志望の二次面接で落ちた要因を考えるなら、そのように自然体で臨もうとした結果、やはり自分の働く目的が企業の目的とうまく重ならないことが見抜かれた結果だろうと思う。実際、面接を受けながら、深く根本的な問いに対して思うままをこたえようとして、そのこたえが相手の求めているものとは違うことに感づいていた。けれどそのときは、素直に自分の思っていることを言う以外に選択肢がなかった。
 自然体で臨むことがどういうことを意味するのか、理解できていなかったと言っていい。今改めて冷静に振り返って、いろいろなことを思う。そしてそれをようやく言葉にできそうだと気付いた。


 話を仕事内で実現したいことに戻そうと思う。
 自然体で企業の価値観に合った人間となるためには、当然考え方を大きく改める必要がある。一朝一夕でできるものではないと思うけれど、その反面、気が付けば変わっていたということもありうると思う。
 やっぱり大学の勉強が楽しいから、好きなことをずっと続けたいという気持ちはあるにしても、企業の説明会で、非常に楽しそうな事業を知ることが往々にしてある。小説は小説として一旦わきへ置いて、これなら全力を尽くせる覚悟ができるんじゃないかと思えること、思いのほか興味を惹かれること、というのを考えてみる必要がある。


 小説を書くことをしのぐ面白さが仕事にあるなどとはかつては考えもしなかったし、今も本当にそうかと思っていたりもするけれど、小説を書く面白さと、仕事における面白さは、そもそも種類が異なるもので、同列に考えるべきものではない、と最近感じる。欲しかったゲームを一人でしたり、好きな音楽を聴いたりすることと、大勢でスポーツやカラオケに興じることとがまったく別物であるように。個人と集団、そこには人との関係性がある。自由と責任、好き勝手楽しむこととは異なった、達成感が生じる。


 生きる大きな目的、人生における目標は、必ずしも一つである必要はない。
 小説を書くことと、同率首位になるような生きがいを、仕事に見い出してもいいんじゃないかと、ようやく思い始めている。馬鹿にされるかもしれないけれど、小説を書くことと仕事に全力を尽くすこととが、自分の中で並存するとは今までどうしても思えなかったのである。
 やっぱり、どちらかを犠牲にしなければならないはずだと思い込んでいた。小説のために仕事があって、そこには一位と二位とがあった。そうではない。小説のために仕事があると同時に、仕事のために小説もまたありうるのではないかと思うのである。本を読むのがこれほど好きである以上、読書をやめることは人生においてもはやありえないし、それなら小説を書くことだってやめることはないと確信している。ならば、小説は小説として、仕事は仕事として、両者を分割するのではなく、どちらも他ならぬ自己を形成するものとして、等しく大切にすべきなのだと思う。そう思うようにすれば、仕事で実現したいことを小説とは別に、自然体で語れる自分も生まれるのではないかと考えている。


 自分で書いていても思うのだが、ずいぶん当たり前のことである。今さらそんなことを、と嘲る人もいるような気がする。周りには二つ以上のことに全力を尽くしている人もいっぱいいるし、こんなふうに小説のことだけ頑張りたいと思う自分のほうが、もしかしたら珍しいのかもしれない。
 けれど、当たり前であることを言葉として客観的な形にすることが、当たり前でない事柄を積み重ねていく土台になりうる。


 で、今回はあくまで自分自身の考え方の変化をつづっただけであり、どう言えばいいのかわからず、言いたいことがどの程度読み手に伝わるかもわからない。
 ただ何か、考え方に以前とは大きな差異が生まれたことが言いたかったというだけである。見方によっては些細なことかもしれないとは思う。しかし、自明に思われることほど、周囲との考え方に違いがないかどうか、確かめるのが怖い。堂々と語ったけれど、やっぱり馬鹿にされるんじゃないかと、そればかり不安である。