つれづれなるままに

 ゆるい作品というのは意外と数が多い。これまで特に、川上弘美堀江敏幸幸田文の作品をはじめとして、そのささやかながらいとおしい瞬間というものを文章のなかに幾度となく垣間見てきたけれど、今宵自分のゆるい読書の遍歴に、新たにひとりの作家が加わることになった。


 庄野潤三[著] 『夕べの雲』(講談社文芸文庫


 大正10年生まれのこの作家の小説を今ここで「新たに」などと言うのも読む順番がおかしいような気がするが、実際本当に、結構遠回りして辿り着いた作家だと思う。もっと早く手に取っていてもおかしくなかったと思うし、遅かれ早かれ間違いなく読むことになっただろうとも思う。それくらい、この本は必然的なきっかけがあって手に取るに至ったと言っていい。
 何と言ってもこの『夕べの雲』は、須賀敦子が自ら選び、イタリア語に訳した作品である。河出の全集第2巻のエッセイ「“日本のかおり”を訳す」に、その経緯が書かれている。
 出版社から、クリスマスにおとなも子どもも一家揃って楽しめる小説は何かないだろうか、と問われ、「ある、日本の小説でよければ」と答えたのがきっかけだったという。


 では、その内容はと言えば、何ということはない、丘の上の家に引っ越してきた5人家族が、季節の移ろいを実感しながら日々を過ごす様子がゆったりと書かれている、というものである。三人称で書かれているのだが、語り手と人物との距離感がまた絶妙だと思う。主人は大浦、妻は細君と書かれている。平凡なようで少しずれた彼らと、長女である高校2年の晴子、中学に通う長男の安雄、小学3年の次男、正次郎たちのそれぞれの日常が、実にいきいきと描かれている。


 その景色のよさに惹かれて丘の上の一軒家に引っ越したはいいが、大風から家を守る木を植えなければ大変だと主人が悩んだり、秋になってもムカデが出てきて厄介だと噴霧器を片手に家族一丸となって悪戦苦闘したり、夏休みの宿題を8月終わりになって慌てて片付けたと思いきやまだやり残しがあったと気付いて落胆したりと、本当に取りとめもない日々の移ろいが小説になっている。


 そこには何か読者に向けてなんとしても伝えたいというようなメッセージや主題に対する作者の力みがほとんど感じられない。小説を書く過程で、少なくとも誰かに何かをうったえようとする作者の思いが滲むものだけれど、庄野潤三はそれを表に出すことなく、すべてを静かに描き出す情景に託している。時の流れとともに変わりゆく季節、変わりゆく季節とともに移ろいゆく庭の植物たちと、そのなかであり余る体力を存分に使って遊ぶ子どもたち、そしてそれを見守る夫婦の姿は、平凡ゆえに特別なものだと思う。さらに言えば、そこには間違いなく、生きた人間の姿がある。
 タイトルに込められた思いがそうであるように、それは雲のようにかたちをとどめることはない、今の連続である。ゆるやかに流れているようで、それは刻一刻とかたちを変え、思わぬ驚きをもって立ち現れる。日々を生きるということは、自分も含めて変わりゆく世界の移ろいを感じとることである。


 時間の流れを実感する瞬間の新鮮な驚きは、めまぐるしく変化し続ける時代の中にあっても普遍的なものではないかと、そんなことを思わせる一冊だった。それこそ、現代まで放送され続けているサザエさんの磯野家が何も変わらないのと同じような、そんな感じである。
 日曜夜6時半の安らぎに似た何かを感じ取らざるをえない作品だと思う。


 しかし、そんな平凡な日常に不思議なほどの憧れや安心感を抱いてしまうのは、現代のわれわれの生活が、その平凡さからはほど遠いところにあるからだと思う。いつしかそれは平凡という名の理想像として、思い通りにならない生き方を迫られている私たちに届くようになったのかもしれない。
 作品を読みながら、平凡で何でもない日常に微笑ましい思いを抱きつつも、それが決して何でもないものではない特別なものだと心のどこかで感じてしまったのは確かだろう。その些細なずれを実感することは、作品が理想と現実のギャップを埋めるように心にしみ込んでいった証拠なのではないかと、今改めて思った。
 心地よいゆるさは時として、複雑に入り組んだ物語以上に、シンプルな真実を教えてくれるものである。