柴崎友香さんについてのツイートまとめ

 昨夜、ツイッター上で好きな作家についてひとりで勝手に語るということをやってみた。以下はそのまとめである。こんなことを始めるとますますブログを更新しなくなる気がするけれど、まあいいかなと思うくらいツイッターが楽しくなりつつある。
 というわけで、第一弾は柴崎友香さんについての連続ツイートである。


 大学2回生の冬頃、きっかけは忘れてしまったけれど、柴崎友香さんの小説が気になって、河出文庫の『ショートカット』を手に取った。自分の書いていた、そして書きたいと思う小説が、なんでもない日常を特別なものに感じさせるようなものだったので、ストライクだった。


 小説を書いて生きていくという夢はまだ心の隅にあって、自分がもし作家になったら、一番対談してみたいのは柴崎さんである。大阪出身だということもあるし、描こうとしている世界やその切り取り方が、本当に巧みだと思う。写真で撮ったような文章が、その最たる特徴だろう。


 河出の『文藝』特集号でのインタビューで、「世界をありのまま描きたい」とおっしゃっているように、柴崎さんの小説には、現実離れした要素はそれほど多くなく、もっと言えば、普段見落としているような、とりとめのない瞬間が切り取られて書かれている。


 例えば目的地に着くまでの車の中でのやりとりだったり、普通の新人OLが書類をシュレッダーにかける瞬間だったり。そんなありふれた場面でも小説になりうるのか、とその着眼点に読み始めた頃は驚いていた。ずいぶん影響を受けたし、今も多分、そこから抜けられていないと思う。


 ただ、それは当然ながら、柴崎さんが書くから小説たりうる。『寝ても覚めても』(河出書房新社)を読んで、書こうとしているものの方向性がさらに研ぎ澄まされたのを感じた。心情の直接的な描写ではなく、目に映るものの断続的な一瞬をとらえ続けることで、気持ちを描き出すこと。


 人がものを見る。それが何気なく、思わず見てしまったものであっても、見てしまった時点で目に留まらせる何らかの意識がその人にあるはずで、それを追いかければ意識の流れが捉えられる。また、見てしまったことに何の理由も意味もなくても、それをそのまま書くことで意味が生じる。


 だが、柴崎さんはそんな読み手の意味付けを拒み、論理的には説明できない「とりとめのなさ」を書こうとしているような気がする。『ビリジアン』(毎日新聞社)は、語り手「私」の過去の記憶の断片がばらばらに並べられた短編連作で、それは同じ「私」の過去なのに、何も脈絡がない。


「私」が過去を振り返るようにして、文章は過去形で書かれているのに、現在の「私」がどこにいるのかは一切書かれていない。その、回想とは違う過去の描写の断片は、総じて誰もがいつかどこかで経験したはずの一瞬を、ぼんやりと甦らせる。記憶には濃淡があるのだと実感させられる。


『ビリジアン』は、色にまつわる記憶の短編集である。意味も理由もなく妙にはっきり覚えているできごとが集まって、現在の自分を形作っているのだと、直接的には何も書かれていないけれど、思わされる。間接的な描写だけでそれを気付かせるというのが、なんとも秀逸だと思う。


寝ても覚めても』以降、そんなふうに「ありのままに描く」ことで書き表したいものが、明確な輪郭を持って表現され始めたように感じる。愛読者としては、「ハルツームにわたしはいない」が単行本になることと、作品が芥川賞に選ばれることを待ち望むばかりである。


 以上、このまま更新がないまま6月を迎えるのを避けるべく、その場しのぎ的にツイートのまとめを載せてみました。