架け橋を眺め、渡る旅

 友人と天橋立に行ってきましたー。
 去年の夏ごろから車でどっか行きたいなという話をしていて、ようやく今日実現した感じです。なんでまた天橋立か。もちろんなんとなくです。電車で行きにくく、なおかつ行ったことのない観光名所ということでさらっと決まりました。


 到着したのは13時半ごろ。とりあえず昼食を取らねばということで、どこで何を食べるか思案しながらいくつかの食事処の前で、メニューと空腹の状態、値段と財布の中身をじっくり考慮して、どの店も猛プッシュしている海鮮丼を安く食べられるところに決めました。
 安いとは言っても観光地ですしなかなかの値段でしたがまあ絶品で。
 注文を受けてからさばかれる新鮮な魚介類がきらびやかにどんぶりを彩っていて、なんていうかカーニバルやんななどと陳腐な喩えを口走ったり、この海老絶対さっきまで生きてたよななどと若干不適切なことを言いながら、わさびを溶いた醤油を垂らし、輝きを放つイクラとともにがつがつと頬張ってました。


 腹ごしらえのあとは当然観光なわけで、松の木が立ち並ぶ道を、わきの海水浴場で遊ぶ子供たちの声を聞きながらレンタサイクルで爽やかに疾走しました。目的とする景色が望める傘松公園へはケーブルカーもしくはリフトに乗らなければならず、乗り場まで行くために通り抜ける松並木の道は、曇っていて暑さが和らいでいたとはいえ、時間的な都合なども考えれば徒歩ではとても歩ききることができないのです。
 けれどなんと言ってもその松並木がいわゆる「架け橋」の部分をなしているわけで、ケーブルカーを降りてもときた道を振り返ったとき、眼下に広がった眺望にはやっぱり予想はしていても息を呑みました。
 有名な「股のぞき」で逆さにその景色を眺め、天に達しようとするその橋の向こうにある何か神秘的なものを思い浮かべながら、すでにその橋を自分で駆け抜けてきたことを思い、そしてまたその「架け橋」を引き返すのだと思ったとき、一つ何かが腑に落ちたような感覚になりました。
 目的の景色が一望できる高台へとただ上がり、天にかかる橋を見て、その先にあるかもしれない何かを見つめながら、それはけして手に届かないものとして憧れのようなものとなって心に満ちる。来る前はそんなふうなことを想像していたのですが、その「架け橋」は、渡りきることのかなわない精神的な憧憬としてとどめられるようなものではない。
 自らの足で踏みしめたのちに渡ってきた橋を振り返るに至ったという事実が、歩いてきた軌跡がやがては求めているその何かへの架け橋をつくっているのではないかと思わせるに至った、と言えばいいのでしょうか。何でもない地面を踏みしめる一歩が、やがては天に届くための一歩にもなりうるのだという直感なのだと思います。
 こんなふうに書いて、どの程度読む人に伝わるのか見当もつかないのですが、そういったことをさらっと考えてしまいました。


 電車であろうと車であろうと、一人であろうと二人であろうと、旅を振り返って思い巡らすのは、いつでもそういう考えもしなかったような何かについてであって、毎回異なるその言葉にしようもない何かが積み重なったとき、多分予想もしないような素敵なものとして、自分の生きてきた過去をささやかに彩る光になるんじゃないかと思います。
 行く前には見えなかったものが見えるようになる、異なった物の見方がおのずとできるようになっていることを自覚したとき、それはまぎれもなくかつての自分ではない自分になっている瞬間です。たった一日、24時間に満たない時間の中に、自覚しようがしまいが、充分に語りうる歴史が凝縮され、思い返す行為とともに、それは結晶となる。
 旅の醍醐味とも言える何かを、そんなイメージとしてつかんだ気がした一日でした。