六月の前線のように

 喫茶店でひとり、コーヒーを飲みながら本のページをめくる。こうして本を読み味わうことが、何か久しぶりのような気がして怖くなった。最近、伊勢旅行しかりだが、ひとりでものを考える時間を意識的に増やしている。こんなことを書くと下宿をしている友人から笑われそうだけれど、それも承知のうえである。恥や強がりを捨て去って書かなければならないことは、まだたくさんある。


 ただ、まずは一生懸命にページをめくった軌跡として、思うところをしたためておきたい。久々のレビューである。


 堀江敏幸[著] 『アイロンと朝の詩人 回送電車Ⅲ』(中央公論新社


 小説でも随筆でもない、ジャンルのはざまをひた走る、知る人ぞ知る散文集の三冊目である。日常に転がる言葉たちのなかに、ふとした輝きだったり違和感だったりを見つけ、想像力によってふわりと現実から飛び上がるひとときが、その文章からは味わえる。飛び上がるといっても、大げさなものではない。むしろ、今もしかして数十センチほど浮いたかな、ぐらいのほうが多いと思う。
 四十九篇ある散文のひとつめ「ネクストバッターズサークル」から、すでにささやかな飛躍が始まっている。
 雨の中、濡れないように傘をたたみながらバスに乗り込んだ筆者は、座席に着いている人々の傘の持ち方がそれぞれに異なっている様子に興味深さを感じ、優先座席に座る老人を観察する。


「老人たちのみか、雨の日の乗客はみな思い思いに傘をさげ、携帯電話の力なんぞに頼ることなくそれぞれが自分だけの世界に閉じこもって、バスのなかという空間の制約を打ち壊すのだ――、バットを立てたまま中腰になり、緊張と弛緩のはざまで来るべきなにかを待つ、ネクストバッターズサークルのなかの、まだ打者と呼ばれるまえの打者のように」


 何の気なしに座席で傘を杖のように持つ老人を、出番を待っている次の打者に喩えたあと、筆者の考えはネクストバッターズサークルという円によって隔てられた、球場における「内」と「外」へと及んでいく。


 こんなふうに、何の変哲もない出発点から、想像もしなかったところへと読み手はいざなわれる。けれどもそれはあくまで日常からほど近い地点であり、遥か遠くの別世界というわけではない。決められたレールの上を進みながら、ときどき確信犯的に脱線し、それを楽しみつつ、思ってもみなかった場所へと、言葉の列車は向かっていく。その揺れに身を任せて車窓からの眺めを楽しむ時間は、無意味なようで、極上の贅沢であるような気もするのである。


 その思索の一つひとつが身近な事柄に関わっているせいか、そこで行われる想像の跳躍が、それほど難しいものではないような錯覚に陥ることすらある。けれど、あのささやかで絶妙な散文を生み出す下地には、日本の古典文学における言葉の連なりや、異なる言語間の往来のなかで築き上げられた独自の感性があって、単純にまねをしてみても到底できるものではない。
 何より、もろもろの事象に対してひとりで対峙した際の立ち向かい方は、今後じっくり考えなければならないことだと思う。誰かとの対話のなかから生まれてくるものももちろん大切ではあるけれど、感受する事柄を正面から受け止めて、想像力によって独自に再構築することが、何かを表現するということである。その、「正面から」、そして「ひとりで」という点に、自分のいたらなさはあると思う。
 ということで、強引に反省の続きへと話を持っていってみる。


 もともと、何かにつけてひとりということに対して苦手意識があった。自分に自信を持っていると嘯きながら、周囲の反応を確かめることをしなければ安心できないような甘えが、ずっと心の奥にあった。いや、多分今もなくなってはいないと思う。自立も自律もままならないのに、その情けなさを絶対に表には出すまいと決め込み、強がることだけに必死になってきたのである。表に出すまいと誓いながらもそれは、少なからず見破られるものなのだと、その事実さえ見たくなかった。
 異常に強固なうわっつらの自信と、弱さを意地でも隠したがるこの性格を理解した友人は、だからこそ弱点を指摘することをしなくなる。王様は服を着ていないのに、こちらが何を言おうとこれは立派な服なのだと言い張るから、もうそういうことにしておこうか、と。極端に言えばそういうことで、これがいかに痛々しい様子か、想像に難くないと思う。


 ただここまでは、ある意味前々回書いた現状分析を言い換えたに過ぎず、問題はそんな自分をふまえたうえで、今後どうすべきなのかである。


 何度となく、自分は何をしたいのだろう、何をして生きていきたいのだろうと問いかけているけれど、2月から状況が変わりゆくなかで、さらにわからなくなっていくばかりである。無理につくり上げた自信が失われるまで、その自信が無理につくり上げていたことにすら気付いていなかったし、もしかしたら実際に、別に無理なんてしていなかったのかもしれない。ここにきて、それさえ曖昧になってしまっている。
 時間はとりあえず傷を癒してはくれるけれど、今新たに面接に臨めるような自己はどこにもいない。一週間が経って、遠ざけていた焦りがまた、首をもたげつつある。ただ、その焦りにかき立てられるままに行動を急げば、同じ結果が待っているような気がしてならない。
 思わず、誰かに意見を乞いたくなる。しかし、慰めや励ましをもらったところで、それにすがるようにして立ち上がって反省をやめれば、そこに人間的な成長はない。「自信持っていいと思う」と言われたところで、その言葉を鵜呑みにするようなことは、今とてもできることではない。正直なところ、面接がトラウマになりかけている。


 揺るぎそうにない自己と迫られる変革、もどかしさと情けなさのはざまで涙のにじむ停滞が、まだしばらくは続きそうである。