言葉なきメルクマール

 面接でしくじる夢から目覚めて、日曜日が始まった。
 昨日から書いているように、気持ちにゆとりみたいなものが全然ないなと自覚しつつバイトへ。精神的にやや危ういところに立っているにもかかわらず、バイト先では仕事のできない年上の人間の面倒を見ながら、迫る面接についてのあれこれを考えていたから、憂鬱極まりなかった。


 ああ、やばいなと思う瞬間が断続的に押し寄せてくるから、いい加減に何か気持ちを抜本的に変えてしまうような行動に走る以外にないだろうと決め込んで、小説を書くときに創作意欲が湧き立つと思われる特別な空間をわざわざつくって、そこにじっと身をおいてみた。


 自室にて。Salyuの歌声に身をゆだねながら、川上未映子さんのエッセイ『世界クッキー』(文芸春秋)をじっくりと、コーヒー片手に読み切った。
 聴覚、視覚、味覚を、自分の精神を研ぎ澄ませてくれるものたちに支配させて、閉じて凝り固まってしまったように思える感性を精一杯にほぐして開いてみようとする試み。じわりじわりと、身体の奥底からこみ上げてくるこの感じは一体何なのであろうかと、目的にしていたものを現実に得ながら考えてしまうのであった。


 言葉の存在に驚き、言葉の美しさを愛で、言葉の可能性を信じ続けるということを、それを理解してしまった今となってはやめることなんてできないだろうと確信させる一冊が手元にあって、えもいわれぬ感慨に心がいまだふるえているような感じがする。
 読みながら付箋を貼らずにいられない自分がいて、同時に目の前にあるのが単なる言葉の羅列でしかない事実を客観的に理解しつつ、やはりとんでもないことよなと感心している自分もいて。
 暗い海の底にいながら、けれどもそのまっくらな海というものが、外から眺めてみたら文句の付けようもない紺碧の輝きを放っているということを知ってしまって、すとんと腑に落ちた感覚になる。そんな感じ。


 創られたものというのが、それを受容する前と後とではそのひとの内面をおそろしいくらいにまで変えてしまう。本の感想をこうして思うがままにつづりながら、自分のなかから新たに生まれ出た言葉の連なりの不思議を思う。
 言葉に対してだけではなくて、音楽であっても、コーヒーの苦味、本の表紙の手触りであっても、それぞれに付けられた値段で計られる金銭的な価値以外の何かとてつもない大きなものが、そこにはひそんでいるんじゃないかという気になる。
 精神的な豊かさとか、目に見えない付加価値とか、そういう言い方をして呼んでいるけれど、言葉にできないもっと何か偉大なものが、人間の精神というのか想像力というのかをもってしてそこに生じるのだなと、しみじみする。


 そういうものを創造、提供していきたいとつねに願いながら、それに見合う仕事を現実に見つけようとするのは果たして誤りなのかどうなのか。芸術とかいう荘厳で漠然としたものものしい概念が、人々に与えうる影響の計り知れなさというものについて、もはや無自覚ではいられないのである。
 こんなことを考えながら、商品の売り上げ向上を目標にさあいくぞと新規開拓の営業なんぞできるわけもないよなあと、趣味と仕事をごっちゃに考えてみたりもする。
 就職に向けていろいろと頑張るなかで見えてきた自分の軸というのが、えらく頑固でどっしりとしたものであるらしいことに、結構最近気付いたように思う。それを認めて受け入れることが、世間一般と言われるものから逸脱する危険を孕んでいるような気がして怖かった。というか、半分認めかけている今でも怖い。
 ただ、ささやかでもいいから、仕事を通じて何かしらの精神的な豊かさだったり、味気ないように思える日常への付加価値だったりを提供できるようなことをやりたいなあとはずっと思っているしだいである。
 それができそうな企業が、かろうじて選考途上にある。明日と明後日が面接である。


 かぎりない数の人間がいる世界のなか、自分の人生で出会うことになる人間が、一体どれくらいいるのか、そして、どんな些細な関わりであれ、めぐり合うということそれ自体がいかに稀有で輝かしい偶然であるのか。
 覆る当たり前のうえで、自分と誰かをつないでくれる縁という目に見えない強靭なものを、そしてそれと出会うひとときを、とにかく精一杯楽しんでみることが、やっぱり一番大切なんじゃないかと思うんです。




 ――言葉には決してできないこの感じのすべてを他者と分かち合いたいという、夢とあきらめが同時にあるような切実からいつだって何かが生まれて、生き延び、それで呼吸をくりかえす。