履歴書の筆跡をたどって

 10枚1組の履歴書がなくなって、同じものを買い足すとき、重なっているのに気付かず2セット買ってしまったのだが、その2セットめがそろそろ尽きようとしている。レシートを見て、あれ、と思い、いくらなんでもそんなにいらないだろうとその20枚の厚さに笑って100円を惜しんでいた数ヶ月前の自分に、今は笑える。


 見ず知らずの人間に自分を伝えるための数行に、どれほどの苦悩と推敲を繰り返してきたか、ときどき遠い目をしつつ考えたりする。過剰に背伸びをして、自分が非の打ち所の無い人間であるかのように着飾った時期もあれば、読み手のことに気を配りもせず、本当に思ったままのことを書いたときもあった。


 度重なる推敲の末、夏が終わるころになってようやく自分自身で納得のいくものができたと思っているけれど、普段から文章を書いていても、自分の内側にある心の底からの思いを書き付けることは、途方もなく難しいものなのだと実感している。
 現在の自分がこういう人間であり、今後はこうなっていきたいといった人間像を幾度となく思い浮かべながら、「本気でこう思っている」という確信に満ちてつづった言葉が、不採用の通知とともによくできた虚妄だったと気付いたことなど数知れない。
 ひとりの人間のなかに同時に巣食う、就職への思いや働き方のスタンス、理想とする将来像など、それらですら単純ではない絡み合い方をしているのに、志望する企業にそれを一致させようと考え始めると、中心に据えるべき自分の軸がどこにあるのか、すぐにわからなくなる。いったい自分は、この企業に入りたくてこう思っているのか、単に就職活動を終わらせたくてそういう意識になっているのか、やっぱり本当にそのフィールドで働きたいからそう考えているのか、何度見失って混乱したかわからない。
 他ならぬ自分自身の考えが混沌としている状態で、誰かに助けを求めたところで根本的な解決はまずやってこない。悩んでいたときはそれがわかっていたから、誰かに相談すればかえって迷惑をかけることになりはしないかと思い、苦しくて仕方なかった。


 客観的に自己を見つめる必要性が、よく説かれる。けれど、考えを詰め過ぎると、どの自分が客観的に見た自己なのか判断できなくなることも多い。手応えのつかめた面接を経験し、自分の見つめ方にある程度の自信を持った状態で挑んだ次の面接であっさり落とされたりすると、正しいことが何なのか、自分のやってきたことがそれでよかったのか、それまで自信と呼んでいたはずのものがあっけなく崩壊する。


 そんな崩壊と再構築の途方もない繰り返しが就職活動なのだ。と、散々なことを言ってみるが、事実である。しかし、生きがたい世の中に立ち向かって生きるというのはえてしてそういうものなのだろう、とこのごろ思わざるをえない。


 友人が内定を取ったことで奮起し、必死になった9月。何度目か、数えるのすらやめた挫折のあと、落ち着いて自分のやりたいことを書き出して考えてみたら、思ってもみなかったほどあっさりと、自分の軸が明白に浮かび上がった。それが心の底から思っていることなのか、何度も懐疑的になったけれど、急に明らかになったそれは、信じられないくらい腑に落ちていて笑ってしまった。
 その軸から、うまくいった面接とうまくいかなかった面接について考え直してみると、結果の出ないところにある企業の考え方と自分の不一致にうなずかざるをえなくて、ああ、それは落ちても仕方ないと、納得できなかった結果に折り合いをつけることにもなった。


 まだこの先、ここに書いたことすら覆るようなことだってありうるかもしれないが、やるべきことは悲しいほどわかりきっている。ただ、何もかも落ち着いたとき、お世話になったひとたちに、少しでも優しくできる人間でありたいと思う。数え切れない迷いや焦りのなかにあっても、支えてくれている周りのひとへの感謝の気持ちに、嘘はひとつもない。