過程の仮定を語れる範囲で

 小説を書いていなかったら何をしているだろう、と考えてみた。
 これはわりと何度も考えたり喋ったりしていることだけれど、せっかくなので文章にしてみる。何か思わぬことが判明しないかというささやかな期待もありつつ。


 中学時代、好きだったゲームを友人と語り合う延長線上で、遊び半分に書いた小説から、何をどう間違ったのか、オリジナルをとことんまで書き続けることになるとは。
 思ってもみなかった、などと言えないほど自然な流れで書き始めたものだし、むしろ、小説を書かなかった自分など思ってもみなかった、と言ったほうが正しい。
 オリジナルを書いてみようと思い立ったぐらいの段階で、なぜこうも書くことが楽しいのかと一度考えてみたとき、そういえば本を読むこと自体も、作文を書くこと自体も、それほど嫌いではなかったことに気付いた。


 積極的に本を手にとって読みあさるようなことは、小説を書き始める以前はそれほどやっていなかったものの、本を読む楽しさは一応理解していた。親の影響で、本がそれなりに身近にあって、たまには読んでみようかとも思う機会に恵まれたのはきっと大きいと思う。
 そして、遠足の思い出を作文にしてください、と当たり前のように言われた小学校時代、大半の人間が面倒だと思ったように、厄介だと自分も思った記憶はあるのだけれど、文章がうまく思いついてすらすらと書ける瞬間というのは、面倒だった思いが覆る瞬間だった気がする。


 書き始めたきっかけというのがたまたまゲームであったというだけで、おそらくどこかのタイミングで間違いなく小説を書くことに生きがいを見い出す瞬間というのがめぐってきたんじゃないかと思わないでもない。
 中学時代がそもそも自分の内向的な部分を自覚せざるをえない時期で、さらに転校の経験から自分という人間の存在にわざわざ正面から目を向けてしまう機会が訪れるため、何か書こうと思い立つのは時間の問題ではないかと今では思ってしまう。


 そんなこんなで、書き始めて7年。言い換えてみたら、恐ろしいことに人生の三分の一である。ていうかもうそろそろ8年である。
 まあ、そうは言っても、小説を読んだり書いたりということが生きることの中心になってしまったのは高校時代の後半なので、8年というのは少し大げさかもしれない。


 で、もし小説を書いていなかったら、という主題に戻るけれど、哲学を専攻していたかどうかがまず危うい。一応の本好きというところから、日本文学だったり西洋史だったりをなんとなく専攻し、高校時代に続けたテニスを遊びで続けるか、ギターをやっていることだしバンドでも組むかという流れになったんではなかろうか。
 ……大学時代からの友人が聞いたらなんとなく「うわー」とか「えー」とかいう顔をされそうな気がする。自分で書きながらもそんな顔をしてしまったが。
 いや、そもそも小説を書いていなかったら、大学時代からの友人には出会っていないのだから、なぜ書かないのかと問いただすこともできないわけで。
 今以上に薄っぺらい人間になっていたかもしれず、少し怖い。


 物を書くというのは、気持ちの揺れ動きを目に見える言葉に表すことであって、つらい経験や不安な心情を書くときは、それらを自分の内に積極的に受け入れていなければできないと思う。思い悩んでいることを忘れようとしてテニスをしたりギターを弾いたりといったことをするのも当然一つの有効な方法ではあるけれど、その場合、思い悩んでいることというのは最後まで自分の外側にある。何かについて後ろ向きな思いを抱えたとき、本を読んだり小説を書いたりするといった行為は、自分がどう思っていようとその感情を自分の内側に引き入れることではないだろうか。
 生きるうえで抱えなければならないおもいというものを、果たして言葉でつづらずして耐え抜けるかどうか、そう考えると全然自信がない。


 自分で書いたものを人に読んでもらって褒めてもらえるのがうれしいとか、誰かを自分の言葉で感動させたいとかいう自己顕示欲ときれいごとの裏には、抱えなければならない悩みとか、経験しなければならない苦労から何とかして救われようとするネガティブな思いも多分あるんじゃないかと考えてしまった。
 というよりむしろ後ろ向きな思いがあるのが普通で、それを上回る自己顕示欲が自分にあるから惜しげもなく書いたものを読んでもらえているような。


 けれど、つらい思いに押しつぶされそうになるとき、人というのは心ならずも人を裏切ることがあるけれど、書くことだけは裏切らない。そんな思いがないわけではない。
 これまで大した苦労をしていないのではないかと自分で思う、と以前書いたことがあるけれど、それは多分、出来事として語ろうとするから、他人が聞いたら全然大した苦労に見えないものになってしまうように思える。そんなことぐらいで、と言ってしまえることほど、本人が考えている重みには周りとの落差が生じている場合が多い。


 やっぱり、書かなければ生きていけない自分がいて。
 書かずに生きられる人ほど自分は強くないと思う。