犯人と刑事はクライマックスで崖に

 わりと基本的なことを書きます。


 まっとうだと友人に言われるし自分でも思うけれど、どこかで順当に進むことに抵抗してみたり、大勢の中の一人になりたくないと考えてみたりで、妙に自分のオリジナリティを貫こうとしているところがある。
 小説を書いているから、じゃあ出版社?
 就職に向けて動き始めた当初は誰でも思うような道をまず考えてみたけれど、説明会を巡るうちに、違う、と確信する。いろんな理由はあるものの、その中の一つに、ベタなことが嫌、という単純な理由が間違いなくある気がしている今日この頃。
 人とは違うものを書かないと立派な小説として成立しないはずだと思い続けて文章を書いてきたからか、自分にしかないものの追求と、ありがちなものの排除というのが、小説の外部でも知らない間に実践されているのかもしれない。そのありがちなものの排除の一つとして、ついには「書くことが好き→出版社もしくは新聞社」という道筋も見なしてしまっているような気がしないでもない。


 ついでに言っておくと、「書くことが好き→出版社もしくは新聞社」という動機は、「食べるのが好き→食品メーカー」というぐらい安直で脆いと思う。何かを好きであることは自分を動かすエネルギーにはなっても、それと企業で働くこととはあまり関係がない。好きというのは前提にしかならなくて、書くことが好きなら仕事とは関係なく書けばいいと思うし、食べるのが好きなら食べていればいいと思う。


 で、話が逸れたので元に戻ると、好きで続けてきたことを、安易にそのまま自分のやりたいことと結びつけるとまずいというのを身をもって知りつつ、同時にベタな進路のように思えて避けたい、と考えていることを自覚したという話、だと思う、多分。
 競争率と難易度が高いから大手の人気企業は避けたい、というのも一つあるかもしれないけれど、人気ランキング上位に飛びつくなんてベタなことをしたくない、とかいうあまのじゃく精神も多分そこにある気がする。まあこの場合、大手ばかり受けて失敗したという話をあちこちで聞くからというのも当然あるけれど。
 でもなんか、中堅優良企業に狙いを絞ったものの、数が少なくて苦労しました、とかいう結末が怖いな、などと縁起でもないことをときどき一瞬だけ考えてすぐやめたりしている。


 ところで、ベタなこととそうでもないことについて考えていると、その境目だったり分け方だったりがよくわからなくなってくる。
 極端なことを言えば、大学を出て就職する生き方なんてベタだ、とか言えてしまう。じゃあ大学をドロップアウトしてバイトで稼いで海外を放浪して自分探しでもしてみればいいのか、というと、自分探しに海外を回るなんてベタだ、となって、しまいにはそもそも生きているなんてベタだという意見まで出現しかねない。


 ベタという言葉を普通という言葉に言い換えても大体似たようなことになる。普通とか常識というのは、えてしてよくわからないもので、あるのかないのかも判然としない。
 ただ、それでもベタなものの需要というのはやっぱり間違いなくあって、物語で言うと、王道だからこそ揺るぎないようなものがわれわれの心の軸としてなぜか存在している。刑事は犯人を捕まえなければならないし、9回裏2アウト満塁一打サヨナラの場面で主人公が打席に入ればまずキャッチャーフライはありえない。物語を受容する側も、逮捕の瞬間や、追い込まれてからの劇的な逆転勝ちを期待していて、ベタな展開を求めている構図がすでにできあがっている。


 だから、ベタなこととそれを裏切るオリジナリティの絶妙な均衡をつくり上げることが、物語を考えるうえで必須ではある。
 それを踏まえて、自分自身の就職までの道筋が、果たしてうまく均衡を保てているのかどうかを少し考えてみると、それはやっぱり終わってから思い返さないとわからないのだろうと思う。


 そういうわけで、いろいろ書いても全然生産的な結論に至らない日記なのでした。まっとうな努力を着実に積み重ねられる素直な変人でいたい、とよくわからないことを考えています。