饒舌に物を語ること

 今日は就活の話題をわきへ置いて、エッセイらしいことを書いてみます。


 前からそこそこ好きでしたが、最近になってしっかり聴いてみたDo As Infinityが自分の中で熱いです。きっかけは本当になんとなくですけど、今Live版ベストを聴いて気持ちを上に向けてます。
 アーティストのライブに行く機会があると、やっぱり生で聴く感動を実感するわけで、そこに通常の録音されたもの以上の価値を認められるようになった気がします。今さらですが。
 CDに録音された状態で聴くにしても、ライブの録音だと少なからずそこにある雰囲気や熱といった、“生きている”感じ(ライブ感とは言いたくない(笑))が音に満ちていて好きです。
 考えてみればCD自体は複製できても、録音した瞬間にその場に流れていた音楽は二度と再現できないわけですし、それを意識して聴いていると、イヤホンから、あるいはスピーカーから流れてくる旋律が、たまらなく貴重に思えてきます。
 ちょっと専門的なことを書きますが、「売れるもの」として、商品価値を持つものとして音源の大量生産が可能でも、ライブ録音によって生み出された一度きりのメロディに宿る芸術性というのは、文化産業の様式でも支配できるものではないと思うんですよね。
 まあそんなわけで、最近いろんなアーティストのライブ版をしっかり聴いてみています。


 で、話は変わって、堀江敏幸さんの新刊『正弦曲線』を購入しました。
 まだ平凡社ライブラリーの『書かれる手』を読了していませんが、最近すっかり堀江さんの言葉が紡ぎ出す散文の世界に浸っています。
 何気ない日常に、言葉の力のみで特別な光を与えること、読者がそれを読むことによって、すぐそばにある事物が別様の姿をして見えてくるように仕向けること、言葉の芸術が担うことのできる、その繊細な分野がたまらなく好きです。
 何でもない数学の授業として誰もが学ぶ正弦曲線、タンジェントですが、その「窮屈さに可能性を見い出し、夢想をゆだねてみる」姿勢と、その退屈で面白みもない曲線を「優雅な袋小路」とまで言ってしまえる感性に、もはや敬服せざるをえない思いに駆られます。
 果たして単なる正接がそこまでのものかと、その文章に対して思わず首をひねってしまう人はきっといるとは思います。しかしながら、ありふれた些細な物事を、極端なまでに真摯に見つめるスタンスと、そこから語られる美しい言葉の連鎖には、読み手もそれをまっすぐ受け止める態度が必然的に生じざるをえないんじゃないかとすら思ってしまう。
 日頃誰もが目にする事物の普遍性に静かな揺らぎを与えて、そこに特殊性という波紋を生み出すような散文だと思います。生み出された波を面倒なものとして斥けるのではなく、その揺れにそっと身をゆだねて生きていたいものですね。