手足の運動習慣

 歩くこと、走ることからずいぶん(といっても1ヶ月ほど)遠ざかっていたので、連休を機に、まずはリハビリがてら歩いてみた。6月末まで続けていたランニングは、夏の始まりだったり雨だったり(今年は特に休日と雨がよく重なった)に妨害されて途絶えており、身体を動かしたい思いだけがくすぶっていたのだった。

 

 くすぶるといっても、そんな思いは日に日に疲労に上塗りされ、休日はその回復に充てることになる。そうしているうちに、身体を動かしたいのに動かせていない罪悪感は薄らいで、そのまま運動して疲れるのを避け、気づけば身体を動かすことが億劫になってしまう。

 

 あまりにも自然な負の連鎖は、仕事上不可避ではあるけれど、長く続いた運動の習慣を、過去のものにはしたくない。

 そう思って歩いた結果、いつも走ったり歩いたりしているときに考えるのに、その習慣がおろそかになると消えてしまう思いを言葉にしておこうと思い立った。

 

 それは、書くことと歩くこと(走ること)の相関についてである。

 走ること(ランニング)からは遠ざかっても、書くこと(手書き)の習慣は続いている。思ったこと、考えたことを書き連ねる行為は、思考の可視化を手段として、筆記具の書き味を愉しむという目的を果たすために行われる。一見すると違和感を覚えるだろうが、これは文具沼に沈んだ人間の、倒錯した欲望の表出である。

 

 良いことも悪いことも混ざり合い、時系列も因果もねじれて渦巻く頭の中を、ペンを握り、手を動かすという運動によって表面化していく。関連性も脈絡もない箇条書きや殴り書きでも、手を動かして書き心地を味わう時間によって、それは救いのひとときになる。暗く底知れぬ混沌も、文字になってその姿を現せば、秩序立てて整えるための糸口が見つかる。書く悦びが、翌日歩みうる道をぼんやりと照らし出すのである。

 

 この、書くことによって混沌から秩序へと移行するすっきりとした感覚が、歩くこと(あるいは走ること)にも見出せる。

 

 しかしながら、歩く(走る)という行為のみに集中したときの、頭の中がクリアになっていく感覚は、書くことによるそれとは似て非なるものである。

 椅子の上で思いつくことを思いつくままに書き出す閉鎖的な空間での行為とは異なり、外の空気を吸って歩く(走る)ことは、混沌とした思考を篩(ふるい)にかけるような行為と言えるかもしれない。一般的な言い方をすればそれは、「雑念を払う」ことだとも言える。

 

 形も大きさも様々な感情や思考のうち、今の自分が向き合うべきもの、今の自分に必要なものを見極め、アウトプットするために、思いを篩にかけるのである。腕を振り、踏み出す一歩が篩をたたく手のように働き、歩を進めるごとに、些末な思いはこぼれ落ちていく。そうして残ったものの中から、形の良いものを選び出し、拾って磨いてみる。

 そんなふうに磨き上げた思考が、言葉になり、文章として仕上げられることで、それがきちんと他者へと届く、そんな気がしている。

 

 もちろん、身体を動かすだけでは、思考を秩序立てて頭の中に並べただけにすぎない。それを目に見える状態にするには、真っ白な紙に一つひとつ書き出す行為が不可欠である。角ばったものを磨く紙やすりに目の粗さ・細かさがあるように、思考を言葉として磨き上げることにも、適切な順序があるのだろう。

 

 雑味を雑味として、混沌をそのまま表現することの美しさも説かれることはあるが、瑕一つない宝石を磨き上げる技量を、個人的には追い求めていきたい。文章を書くことは頭を使う行為なのかもしれないけれど、頭だけでできるものでもないと思っている。こころとからだ、精神と身体の相即関係に思いを馳せながら、書くという行為とともに、適度な運動を辞めずにいたいと思う。

文を綴る文月

 7月に入ってから、ブログを更新していなかった。忙しいというのはあるが、思っていることを言葉にする機会が日常的に確保できているのが大きいのだろう。
 
 木軸ペンの購入報告から2週間ほど。届いた賞与明細を見て、あのペンを買いに行かねばと某文具店に向かった。
 
 S.T.デュポン、D-イニシャル ボールペン(ブラッククローム)。デザインに惹かれて試筆して、その書き味が忘れられなくなったボールペンである。より高価なデフィが有名なのだが、その隣に並んでいたD-イニシャルボールペンのほうが、安いのに持ちやすく、デザインも好ましく思えた。店頭を訪れるたびに試筆させてもらい、またいずれと言い続けていた。手元にあるRomeo No.3を上回るその滑らかなインクを、G2タイプのリフィルだという理由で先に購入し、別のペンに入れて使ってもいた。そんなデュポンのボールペンをようやくこの手に、と決意と期待を胸に向かった店頭で、信じられないことが起こった。
 
 ショーケースから取り出されたものを改めて手に取り、一筆して思ってしまった。「別に、今欲しくないかも」と。
 
 紛れもなく自分の内側から聞こえてくるその声に、異を唱えることはできなかった(本音なのだから当然だ)。
 どうして、と落ち着いて考えてみると、思い当たることは二つあった。
 
 一つは、初めて書いたときの感動が、試筆を繰り返すことによって薄れてしまったこと。あの感動が、その瞬間だけのものでなく、手に馴染んで以降もやみつきになっていく性質のものだと信じていたのだけれど、そうではなかったのだと気づいてしまったのかもしれない。
 もう一つは、前述の通り、先にインクリフィルを購入していたことである(一つ目の理由に関連することでもある)。G2タイプゆえの互換性が、自分がペンそのものを欲しいと思っているわけではないことを教えてくれたような気がする。実際、デュポンのインクを入れた木軸ペンの書き味に、かなり満足していたのは事実である。
 
 ならば、どうするか。懐に余裕があるにもかかわらず、気持ちは空回りし始める。手元に一本もないアクロインキの高級ラインの呼び声が、パイロットのグランセを通して聞こえてくる。こちらも改めて書いてみて、やみつきになりそうになる。が、その軸の細さがはやる気持ちに待ったをかける。しかしながら、絶妙な重さが誘惑を繰り返す。確かに、一度持って書いてしまうと、戻れない気がする。インクの発色と滑らかさ、高級感のバランス……軸の太さ以外に文句のつけようがない。今回はこっちかもしれない、とそんなふうに思ったとき、おもむろに、店員さんの差し出した一本があった。
 
 ウォーターマン、エキスパートエッセンシャル(ブラックCT)である。
 
 憧れだったウォーターマンのボールペン。メトロポリタンエッセンシャルは試筆したことがあったけれど、太軸のエキスパートエッセンシャルは、S.T.デュポンのほうが欲しいからと、詳しく調べることもしないままだった。けれど今、そのデュポンへの魅力が遠ざかり、序列が揺らいでいる。
 
 薦められるままに試筆して、種類の異なる衝撃を受けた。滑らかすぎず、かといって粘りが強いわけでもなく、筆圧に応じて滑りを制御しやすい独自インク。高級感のあるずっしりとした重みと、気持ち後ろのちょうどよい重心バランス。アクロインキほど滑らかさや発色がよいわけではないが、なぜか書き続けたくなる独特の書き味と安心感。どうして今まで試筆していなかったのだろう、とデュポンがあったからなのだが改めて自問してしまう。そして、持ったばかりなのに異様に惹かれている自分に戸惑う。
 
 信頼できる店員さんのお薦めとはいえ、自分の好みとの一致具合に驚きを隠せない。斜めに切られた天冠のデザインと、クリップの「W」の刻印が呼んでいる。
 「インクは0.8mmが入ってます。1.0mmもありますよ」これがとどめだった。
 1.0mmを仕事で使うにはやや太く、0.7mmがあればと願っていたところに、思わぬところからもたらされる0.8mmの誘惑。仕事でも自宅でもこの書き心地を味わえる。そしてそれは、今手元にあるペンのどれとも似ていない。
 それでも数十分悩んだが、購入せずに帰ることはできなかった。購入を決めてから知らされた、付属する革製のペンシースの存在も格別の嬉しさがあった。
 
 木軸のペンたちに、不満があるわけではまったくない。そこには工芸品としての美があり、同時に用の美もある。
 ただ、真鍮のペンには光沢や重みがあるだけでなく、ブランドが背負う歴史の重みや価値もある。そこに優劣はないと思っている。
 
 黒が似合いそう、と言われていたこともあって、自分に合うボールペン選びを真鍮のペンで考えたくて、即決にはなったけれど、エキスパートエッセンシャルがとてもしっくりきたのだった。ウォーターマンにはもう一つ上のランクにカレンというボールペンもあるのだが、より高価だからよいというわけでもなく、どちらも試筆した結果、自分はこのエキスパートエッセンシャルのブラックCTが気に入った(エキスパート=専門家というネーミングも、自分の仕事に合っているようで気に入っている。購入から間もないのに、もう不可欠な=エッセンシャルなペンになりつつある)。
 
 物理的に書くという習慣は、自分の日常に欠かせないものとなった。
 1月下旬に購入した365ノートは少しずつ終わりに近づいており、年内には使い終わりそうである。書かない日はあっても、その分たくさん書く日もあって、アウトプットが気持ちを穏やかに保てる要因の一つになっている。遠いように見える目標や願いでも、書いたことによって実現できたこともある。書けば叶うのかもしれない、と大げさではなく思い始めている。筆記具にはまったら人生が変わった、と言えるまで、それほど時間はかからないような、そんな気さえする。
 
 ペンは語る道具であり手段であるはずなのに、ペンについて語ることがこんなにも楽しいのはなぜなのか。書き味について語る言葉が、ペンを通して溢れ出る。書かれる言葉に意味があろうとなかろうと、書く行為そのものに極上の意味づけがなされていくのだから、何も問題はない。頭の中だけで行われ、完結する閉じられた思考が、身体を通して書く行為を伴うことで、開かれた悦びに変わっていく。未来のための今ではなく、文字を書く今この瞬間の悦びが、書き続けている間はずっと持続する。
 
 高品質な筆記具が良いとか、手書きゆえの楽しさとか、表向きに言われる言葉の向こうには、こんな深さと幸福感があったのかと驚かされる。消滅した語彙で語れば「良いペンは良い」に収束してしまうけれど、できうる限り拡散を試みればこのようになるだろうか。
 
 本当に? と思うなら、ぜひこちらの世界へ。わかる、と共感できるあなたはもう、筆記具沼の住人だと思う(良いペンは、何本あっても困らない)。

はるかなる水無月

 悠長という言葉には「~なこと言っていられない(言っている場合ではない)」と後に否定的な表現が来がちで、それがむしろ一般的ですらある。検索をしてみても、「急を要するにもかかわらず」という状況において使われるものだと明記されているケースがあった。
 
 変化の目まぐるしい現代社会を生きることは、つねに何かに急き立てられ、(それが緩やかであったとしても)何かが差し迫った状態が持続していることと同義である。明日までにやること、1週間後に終わっておくべきこと、1ヶ月後に迫る予定、1年先を見据えた目標――こんなことは多くの人間が述べていることだが、そこに現在の充足という視点は存在しない。それなのに、先のことばかり考えておきながら、自分自身が死に向かいつつある存在だということはきれいに忘れて生きている。何かに急き立てられて焦るのは、死ぬまでの時間が有限だからこそだ、とそんなふうに言える人間は少なく、「今がいちばん若いのだから」という言葉も聞き流して、とりあえず差し迫ったことに向き合い続ける。
 
 それが日常となった現代において、悠長なことを言ってよい場面や、悠長に過ごしていられる場合というのはどういう状況を言うのか。それは論理的に言ってしまえば、非日常の時間を過ごすひとときにほかならない。気忙しい日常を離れて、今この瞬間に向かい合う時間。楽しさや嬉しさといった幸福感を覚える時間に対して、人は過ぎ去ってほしくないと思い、この時間がずっと続けばいいのにと願う(ゲーテも『ファウスト』で言っている)。
 
 だから「悠長なことを言う」とはすなわち、時間の有限性を離れて悠久を求めることなのかもしれない(悠々自適な暮らしとはまさにそういう生活を指す)。
 そして、そんなふうに悠遠な時間を願うひとときは、たとえば美味しいものを食べているときだったり、夢中で写真を撮っているときだったり、欲しかったボールペンを眺めているときだったりする。
 
 
 3月以来二度目となる、杢軸の筆記具を製作する某工房の販売会in梅田。その抽選に無事選んでいただき、25日に行くことができた(以前、異様にアクセス数が伸びたので、今回は意図的に名前を伏せている。本来隠すつもりはなく、戦利品の樹種でわかりきってしまうとは思うが、検索除けということでご了承ください)。下半期に関西での販売がなさそうということで、短いスパンではあるが覚悟を決め応募した。
 
 やや早い時間に呼んでいただけたこともあり、希少な樹種がぎりぎり残っていた幸運に歓びを噛みしめながら、予定していた2本に加えて贅沢ながらもう1本、と選ぶその時間が何とも幸せで、名残惜しかった。ペンを選ぶ20分というのは、わかっていても短く、あっという間に過ぎていく。戦利品は次の3本である。
 
①デザートアイアンウッドこぶ杢 ルーチェペン
 3月の神戸には出品がなく、硬く光沢があって、つるりとした手触りと、砂漠を感じさせる黄色がかった色彩の中に無数の杢が渦巻く1本。アメリカのアリゾナ砂漠で石化する過程の木であり、長い長い時間が詰まっている素材がペンの形になって手元に具現化していることに、どうしようもなくロマンを感じる。工芸品とはそんなふうに、人間の生きる時間とは異なる時間を感じさせるものなのだと思う。書き味や使用感は、結局ジェットストリームの0.7mmが圧倒的で、仕事において求めている書きやすさと書き味の両立が、理想的な状態でできてしまっている、そんなペンだと思う。
 
②ローズウッドこぶ杢 シャープペンシル
 3月にラスト1本だったルーチェペンを購入し、今回はラスト1本だったシャープペンシルを購入できることになった。この3ヶ月で最も使用したのがこのローズウッドこぶのルーチェペンだったが、それをもっと上回る杢が欲しいと贅沢ながら思ってしまい、幸運な巡り合わせによって、今回購入が実現した。手元にあるルーチェペンよりも杢の濃淡が細かく、複雑なうねりとグラデーションに、視線が呑み込まれていく。見慣れるまでまともに使える気がしないほど、今のところ使うより見惚れている時間のほうが長いペンである。ペンシルのレギュラーは黒柿孔雀杢が不動だったが、うまくローテーションしながら使っていきたいと思う。また、控えに甘んじていた花梨のこぶ杢に関しても、それを活かすのにぴったりな方法があったので、それぞれのペンにとって幸せな形で、その経年変化を見守りたいと思っている。
 
③サテンウッドバナバ ルーチェペン
 もともとは、クスノキのこぶであるマーブルウッドが欲しかったのだけれど、今回の出品はなくて、くるみか、クラロウォールナットか、欅のこぶか、それともサテンウッドバナバかで悩んだ。光沢のあるデザートアイアンウッドとは対照的に、くすんだ中に落ち着いた光を放つ渋い魅力のあるペンである。さらさらとした落ち着いた手触りは、鑑賞用にとどめておくにはあまりにももったいないので、0.5mmのジェットストリームを装備することにした。手帳に細かく予定を書き入れるときなど、小さなスペースに丁寧な文字を書くのに大活躍しそうで嬉しい。活躍の場面もまさに渋くて、その容貌に相応しいと思う(もちろんときどき0.7mmも入れて、スタメンとして使う場面も楽しみたい)。
 
 と、結局ペンについて語るとずいぶんな文字数を費やすことになり、悠長なことを書き連ねてしまったと改めて考える。
 けれど、好きなペン、愛着の湧いたペンを片手にものを考え、紙に向き合う時間は、そこでしたためる内容が過去であろうと未来であろうと、書くという一点において紛れもなく現在との対面であり充足であると言える。何を買おうか、どこに行こうか、どんなものを食べようかなど、未来への期待を膨らませる一方で、それをノートに書き込むその瞬間もまた、何とも言いようのない幸福を感じられる瞬間である。至福の書き味に身を委ねれば、時間は高級なチョコレートを食べるように溶けていく(過ぎ去るでも流れるでもなく、溶けるが正しい)。筆跡の余韻に浸りながら、ペンの甘み、ではなく重みをなんとなく味わい、眺めてはまた書き出す。書くという行為をいとおしむその熱量は、筆記具沼にはまってから今なおずっと変わらない(そして、物質的な熱量(カロリー)とは異なり、書き続けても太らないのが良い)。
 
 こうして欲しかったものを手にする歓びを綴ることはもちろんだけれど、当日を迎えるまでの時間も楽しかった。過ぎ去ったぶんの時間の長さが、至福の一瞬を刻む歯車になる。人間は誰しもたった一つのことばかりに時間を費やすわけにはいかないけれど、人間の数だけ歯車はあって、噛み合った歯車の回転によって、時間が自分だけのものでなくなることを実感する。
 ノートに書くことは自分ひとりの時間にとどまるけれど、こうしてブログに書くことは、読んでくれるひとと歯車を重ねるような試みでもある。無数の歯車によって秒針が動き、長針と短針は時間を刻み始める。読み始めてから読み終えるまではささやかな時間だけれど、読む人にとってこのブログを読む時間が、悠久を願うものへと少しでも近づけたら嬉しい。そして、ゆっくりと時間をかけたぶんだけ杢が鮮やかになる樹のように、時間をかけることを厭うことなく、悠然と構えていられたらと、これから忙しくなる自分に向けて、ここに刻んでおきたい。

そなえる

 夏の足音が聞こえる、と書くと文学的だが、現実的には夏の繁忙期が近づいてきているのを身に染みて感じている。一つひとつの仕事を手帳に書き入れながら、待ち受ける闘いに向けて頭の中でさまざまな想定を行う。
 
 何度闘い抜いても、うまくいくことといかないことはあるし、忙しさそのものには慣れても、勝負はつねに一度きりである。まだ始まるには早いけれど、こうしてその期間を考えるのは、一つの儀式みたいなものだ。昨年を超える結果を出すために何ができるだろう、と頭を巡らせる。儀式に差し出す供物はいつも未来を見据えた言葉で、練り上げた文章を、見えない夏のそれに献上する。
 
 仕事は仕事として考えつつ、6月も気づけば下旬で、3月に続き、文具にまつわる楽しみなイベントも控えている。仕事にせよ仕事外にせよ、自分の時間を明け渡すことが、誰かにとっての幸せにつながるなら、それ以上に嬉しいことはない。
 
 楽しみにできることが複数あれば、それは十分すぎるほどに生きる理由になる。夏の間にも楽しみはあるし、手帳の空白を仕事以外で埋める喜びもつくり出していきたい。
 
 まずは健やかに、丁寧に生きていくこと。多忙な日々をなるべく穏やかに生きるために、生活を怠らないこと。常識外れの連勤はないが、暑さに負けないようにしていきたい。心身を高いレベルに保つこと、睡眠時間を管理すること。
 当たり前のことではあるけれど、文章にしておくことで戒めになる。
 
 7月から変化するリズムに、きちんとついていける身体でいなければと思う。自分と向き合うのはたった一人の自分だが、仕事は孤独なものではない。仕事そのものも楽しみながら、その先にある楽しみをもっと楽しむために、できることはやりきろうと思っている。
 
 単なる自己管理のための文章のつもりだったが、夏に差し出す供物を仕上げることになってしまった。備えであり供えなのだろうとよくわからない納得をしながら、聞こえてくるその足音に背を向けず、正面から対峙できる人間でありたい。

この世でもあの世でもない場所から

 恒川光太郎『白昼夢の森の少女』(角川ホラー文庫
 
 文庫を心待ちにしていた本。一つ読み終えるたびに、それが短篇に似つかわしくないほどの読み応えを感じる作品集だった(いつも思うけれど、「ホラー文庫」というほどホラーではないので、怖そうだからと敬遠するのはもったいない)。
 
 人に貸して、相手が1話読むたびに感想を聞いて共有したいと思うような、そんな1冊である。短篇は短篇であるがゆえに、読んだ瞬間は強いインパクトを残しても、長い時間記憶に残ることは少ない。読んでいてそれがもどかしく、消えてしまう記憶に歯止めをかけるために、これを書いている。そして同時に、それがこれから読む人への妨げにならないように、核心には触れずに書くことを心がけている。だから、なるべく未来の自分が、これらの短篇一つひとつを忘れないために、一文ずつの作品紹介を挟んで、感想を述べたいと思う(あくまで個人的な備忘録の位置づけの意味が強く、本当はこれから読む人には、できるだけ何の先入観もなしに読んでもらいたい)。
 
■古入道きたりて
 人里離れた渓谷で、山をまたいで歩いていくもの。
 
■焼け野原コンティニュー
 すべてが破壊し尽された世界で、死ぬことができない男。
 
■白昼夢の森の少女
 生きた巨大植物に呑み込まれた人々の作る大きな夢。
 
■銀の船
 この世とのつながりをすべて断ち切って手にできる永遠。
 
■海辺の別荘で
 椰子の実から生まれ、流れついた女。
 
■オレンジボール
 毬になった少年と、それを拾った女の子。
 
■傀儡の路地
 すべては人形の囁くままに。
 
■平成最後のおとしあな
 閉じ込められた先に聞こえてくる、時代の変わり目の声。
 
■布団窟
 夢と現の狭間、布団の闇に呑み込まれる。
 
■夕闇地蔵
 命の炎が見える地蔵と、空をうねる雨蛇さま。
 
■ある春の目隠し
 深夜の廃校で不意に告げられる、人間の真理。
 
 
 姿形を変え、すべての作品に登場する、この世ならざるものの存在。
 恒川作品の美しいのは、それらがいずれも現実と地続きのところに存在していると思わせることにある。現実と夢と、現世とあの世と、実感と空想と。そのあわいは溶け出し、にじみ、ぼやけていく。無駄の削ぎ落された文章は、視覚的に、映像的にその世界を提示する。ありえない物事に接して戸惑い、拒みながらも、受け入れざるをえないという登場人物の状況に、読み手もまた立たされる。それは現に、作品という世界の中で確かに起こっている出来事なのだと突きつけられ、読み手はそれを受け入れるほかない。そして、受け入れたが最後、そこにあったはずの現実と作品という境界が薄れ、やがてなくなっていく。
 読み手が作品に没入するのではない、作品が読み手に入り込んでくるような心地がするのだ。作者の生きた想像力で綴られた文章が、読み手の想像力と呼応する。そうして開かれたこの世ならざるものたちの世界。そこから響いてくる呼び声は、異様でありながらもどうしようもなく魅力的である。ページをめくり出すと引き返せない。
 
 そんなふうに作品に引きずり込まれるようにして読み終えたとき、本が、ページが物理的に有限であることに安堵する。
 物語が、始まりと終わりを持つものであることにほっとするのである。その世界に終わりがなかったら、帰ってこられなかったかもしれない。そんなことを思って微かな恐怖感を抱きながら、一方で、もっとそこにいたかったと思う自分にも気づく。響いてくる余韻は知らず知らずのうちに自明の現実世界の枠にひびを入れ、軋みを上げている。音もなく聞こえるその軋みが一体どこからなのかと耳をそばだててもそこは自分の部屋で、その出所が自分の内側であることに思い至る。読み終えた作品は、すでに自分の一部となっている。
 
 本を読むのではなく、本に読まれるのだというような転倒。人間が世界を生きているのではなく、人間は世界に生かされているのだという再認識。あの世から見ればこちらの世界こそあの世であり、誰かの声だと思ったらそれは自分自身の声だったりする。何の疑いもなく存在していると思っていた世界が、シンプルにひっくり返されるとき、どちらが本当かなど、些細なことでしかないように思える。
 
 そしてこの記事を書きながら、小説を読んで感想を書いているのではなく、小説に感想を書かされているようにも思え、その意志が誰のもので、いったいどこから来ているのか、その源流を突き止めることができずに、奇妙な浮遊感のなかにいる。
 あなたが読んでいるのが本の感想なのかどうか、それを保証してくれるものなどいない。気づいたらあなたはこの小説を読もうと思い、書店に行っているかもしれない。そのとき、これは果たしてあなた自身の意志なのかどうかなんて、野暮なことは考えずに、導かれるままに読むことを薦める。きっと後悔はしないはずだ。

遡上を堰き止めるための何か

 このブログには約13年分の自分が詰まっており、公開している記事については、紛れもなくそのとき考えていたことが様々な形で書かれている。読んではいけないものはおそらくないのだけれど、ときどき過去の記事を読み返して、果たしてこれは読んで面白いのだろうかと思ってしまう瞬間がある。仕事でつらかった時期の文章を読み返すことは古傷のかさぶたをひっかくようなものなので、あまり自分では読み返したくない。さらに古いものだと大学時代、就職活動中の奮闘記や読書記録などもあり、今の自分なら書かないような言い回しや考えの浅さが目について、読むに堪えないと思ってしまう。そのせいで、公開して本当に問題はないのかとチェックをしようにも、長時間読み続けるのがしんどくなってしまい、ろくに読み返すこともできないでいる。
 
 ではなぜ公開しているのかといえば、もちろん新しい記事や読書記録については他者に読んでもらって楽しんでもらいたいし、絶版となった本の価値をきちんと広めていく一助になりたい気持ちもあるから、というのが最初の理由である。そして、さかのぼって読んでくれる人は、どういう形であれ自分自身に興味や関心を持ってくれている人なので、その人にもこんな文章でよければ楽しんでください、という気持ちもあるからだ。たまに、面白半分で他人の過去をのぞき見すような読み方をする人がいるかもしれないとは思いながら、それでもかなりの量の記事を書いてきたので、どんな目的であれ、その量を順に読み返すのは並大抵のことではない。だから、わざわざ貴重な時間を割いて、過去の記事をさかのぼって読んでくださるなんて、いったいどれほど素敵な読者なのかという気持ちになる。
 
 誰にともなく書く、というスタンスはずっと変わっていない。ただ、書いてきたことを書いてきたままに、蔑むことも過剰な評価をすることもなく、まっすぐに読んでくださる方がいれば、それは本当に幸せなことである。
 
 今回のこの記事はいつもと違って特に内容のない文章ではあるが、書いた目的はただ一つ。古い記事へのさかのぼりを、少しでも遅らせるために他ならない。
 読んでくださる方に報告を強いるなんてことはできるはずもないが、もし突然、「2010年ごろの記事読みましたよ!」と笑顔で言われでもしたら、えっちょっと待ってどれ?と謎の焦りを覚えることは間違いなくて、そこにささやかな恐怖を感じるのである。記事を非公開にするつもりはないとはいえ、そのときのことを知りたかったら直接話すので、話を聞いたうえで記事を読んでもらえませんか、というよくわからない要求をしそうになる。いや、「読みましたよ!」と言われるならまだいい。言われずに、過去の記事をきちんと読んだうえで、意味深に微笑まれた場合、もしやこの人、読んだのか……? という疑心暗鬼に駆られるのは必至であろう。自分の側の過去だけが明らかになっているのはフェアじゃない、と公開しているくせに思ってしまう(でも非公開にする気はない)。
 
 と、文字数を重ねたところで締めくくりたい。一応、この記事の役割は果たせるだろうか。
「公開はしてるけど読まれるのは結構恥ずかしいので、もし読んでしまったら言ってください」というわけのわからないメッセージを、ただ言いたいだけという記事である。でも本当に、過去の記事を読む読まないにかかわらず、読んでくださっている方には感謝しかないです。いつもありがとうございます。

鉛筆の形を思い浮かべて

 好きなものについては、きちんと語る言葉を持ちたいと思っている。どうしてそれが好きなのか、何がそんなに良いのかを、他者に伝えられるようにしたい。それは単にさみしさを原動力とした欲求なのかもしれないけれど、好きなものの魅力を語って共感を得られたときというのは、それが人であれ物であれ、何とも言えない歓びになる。本当に好きなものには理由などないとか、理屈抜きに好きだとか、そんなふうに思ってこそ本物なのかもしれないけれど、個人的にはその言葉にならなさから逃げずに、感情を乗せながら言葉にしようともがく試みを大切にしたいと考えている。
 
 
 筆記具の沼に落ち、ボールペンの沼に沈んでから、おそらく半年ほどが経った。いや、まだ半年しか経っていないのかと、書いてみて思わされる。しかしながら、まだ浅いとはいえ、沼に沈むことで意識するようになったボールペンの選び方の主な視点について、言葉にしてみようと思う。そして、良いボールペン(=人を沼に沈めるボールペン)とはどういうものなのか、考えてみることにしたい(※ちなみに、沼に沈んだ経緯は過去の記事をご参照ください)。
 
 以下は、ボールペンを選ぶにあたって比較することになる、6つの観点についてまとめた(好き勝手に語った)ものです。
 
①軸の太さ
 ペンの握りやすさを決めるのは、軸が細いか太いかという点である。自身の手の大きさと、長年使ってきたペンによる慣れとの相関によって、それは人によって異なる。また、日常的に書く文字の大きさによっても変わってくる。小さな文字を書く機会が多ければ、小回りの利く細軸を選ぶのがよいかもしれない。ただ、後述する重さや高級感、書き味という観点から追求を始めると、徐々に軸径は太くなっていく。見た目のスマートさから細軸を選ぶか、握り心地から太軸を選ぶかというのは、難しい問題だと思う。
 
②重さ
 軽いペンは書きやすいけれど、良いペンだなと思うのはどうしてもずっしりとした重さのあるペンで、その重量が、高級感を醸し出す。たとえば胸ポケットに入れたとき、そこにそれがあるという存在感を放ったり、手に持ったときに所有欲が満たされたりする感覚を与えてくれるのは、その重さである(「つまりはこの重さなんだな」というのは本当にその通りだと思う。梶井基次郎はすごい)。でも重いペンは重たいから疲れる、というのも揺るぎない真理だし、重ければよいということでもない。
 
③重心
 そして、ずっしりと重みのあるペンを使って筆記するとき、その取り回しの良さを定義づけるのが、重心の位置である。
 低重心なペンの安定感は、文字をしっかりと書く心地よさを与えてくれる。一方で、そんな低重心のペンに慣れたとき、高重心のペンを使って書いてみると、不思議な違和感を覚える。ペン自身の重さに反して書き味が軽い、という違和感である。そこでようやく、そのペンが「重さで書く」ペンなのだと気づかされる。滑らかなインクリフィルの入ったペンは、握る手に力を込めずとも、筆圧が高くなくとも、紙の上を流れるように文字を書き続けられる。「書く」という行為の種類が異なるのだ。
 
 紙からしっかりと伝わる書きごたえを味わうならば低重心だが、ペンとインクの重さに手を委ね、その滑らかさに酔うならば、高重心を選ぶことになるだろう。良いペンやインクの定義として、甲乙をつけがたい項目の一つであり、個人的にも、気分や場面、書く内容によって持ち替えるのが楽しいと思っている。
 
④機構
 ボールペンの機構は、大きく二つ、ノック式か回転繰り出し式かに分けられる。これも、デザインや慣れを含んだ好みによる部分が大きい項目だと言える。ノック式に慣れていると、その手軽さによって、軸を回転する煩わしさを敬遠しがちだが、両手で軸あるいは天冠を回す瞬間は、文字を書き出すことへと気持ちを集中させるスイッチになりうる。書くという行為への一種の敬意の表現と言えるかもしれない(もちろんそれは、ノック感の優れたペンをノックするときにも言えることではある)。
 
⑤素材
 プラスチックのボールペンを離れ、アクリル樹脂やステンレス、真鍮あるいは木軸へと持ち替えると、手触りを左右するその素材感を楽しむこともまた、ペン選びの醍醐味だと感じられる。木の温もりや手触りに一度はまってしまうとやみつきになる一方で、金属のボディから感じられる技術の粋や高級感は、一目見てわかる風格や威厳を放ち、それがまた所有欲を満たすことにつながっていく。
 
⑥インク規格
 パーカータイプと呼ばれる、一般に広く流通するリフィルタイプがG2規格である。英国王室御用達のブランド「パーカー」が開発したリフィルであり、クインクフロー(パーカー)、イージーフロー(シュミット・伊東屋・デュポン他)に加え、日本のジェットストリームのインクもある。この規格に対応したペンを選べば、1本のペンを、リフィルを交換しながら異なる書き味で楽しむことができる。インクごとの黒の発色や滑らかさの微妙な違いを味わいながら、自分の好きなインクを探求するのが、何とも楽しい。
 
 しかし、メーカーの独自規格のリフィルにも、良いものは数多い。それは、各社の自信の表れでもあり、このペンにこのインクありというメッセージでもある。代表的なものに、ジェットストリームと双璧を成すパイロットのアクロインキ、ドイツのLAMYのインク、スイスのカランダッシュによるゴリアットなどがある。
 他社との互換性がないことを残念に思いつつも、唯一無二の書き味が、時折恋しくなって戻ってくる。そんなとき改めて、ペンそのものの個性を感じるのである。
 
 
 と、思いつくまま語って、その文字数に自分で驚いた。しゃべりたいことをしゃべるために、筆記具の、とりわけボールペンの魅力を語りたいと思って書き始めたけれど、こんなことを直接人に語ったら、話が長すぎて嫌われそうだなと思う。好きなものの話を語って嫌われたら最悪なので、せめて文章の形で許していただきたい(そこには読まないという自由があるから――と、最後に書くことではないなと思った)。
 
 記事のタイトルを、「ボールペン選びの6つのポイント」などとしてもよかったのだけれど、別に広く読まれたいと思って書いているわけではないので、6という数にちなんでこのようにした。結局のところ好みではある。でも、何を判断基準に好き嫌いを考え、選ぶのか、そのヒントになればいいなと思う。記事を読んだ人が、「ちょっといい感じのボールペン」をよりいっそう欲しくなったとしたら(飯テロならぬボールペンテロになれば)、とても嬉しい。どんなペンがあるのだろうと調べ始めること、それが沼への確かな一歩目です。